鎌倉世界遺産登録推進協議会
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武家の古都・鎌倉ニュース第9号

 

日本イコモス国内委員会研究会(東京)で
近藤誠一・前ユネスコ日本大使が講演

9 月はじめ、近藤誠一・ 前ユネスコ日本政府代表部 特命全権大使が、東京・湯 島聖堂講堂での日本イコモ ス国内委員会研究会で、「世 界遺産: ユネスコの課題・ 日本の課題」について講演 を行いました。
石見銀山の世界遺産登録、平泉の登録延期をめ ぐる討議にも参加された近藤大使は、パリのユネ スコ本部での2 年間にわたる体験を踏まえて、「世 界遺産の曲がり角」という視点から (1)  世界遺 産条約の成立の経緯 (2)  世界遺産の概念の推移  (3)  石見、平泉の記載延期 (4)  今後の世界遺 産運営の4 点について現状を報告、世界遺産登録 をめざす鎌倉にとっても貴重な内容でした。
まず1972 年の世界遺産条約の成立については、 「ヌビア遺跡保存から始まった。寄付金を集め、ア ブ・シンベル神殿の移転にとりかかったが、グロ ーバリゼーションを背景に、主権国家でできなか ったことが増えてきて、いかにして問題に対処し、 遺産を守るかといったことを考えねばならない状 況になった」と現状分析しました。
オマーンにおけるアラビアオリックス保護区の 世界遺産末梢について「域内で石油や天然ガスが 見つかり、アラビアオリックスを守っていくつも りはないので、世界遺産から外してほしいといわ れた」と、世界遺産委員会で議論になった事例を 紹介、近藤大使は「徹底的に世界遺産を守ろうと すればするほど、国家主権との対立が強くなる。 ユネスコという超国家的な仕組みを進めていかな ければ、解決のメドは立たない」と述べました。
昨年世界遺産に登録された石見銀山については、 「数少ない旅館の跡取りが十分いなかったのだが、 この1 年間客が増えたことで跡を継いだ方がいい かも知れないと見る人が増えた。京都、大阪から のU ターンも見られ、予想されなかったプラス効 果である」と指摘しました。
また登録基準の一つである「顕著な普遍的価値 (outstanding universal value) の実態について、一番大 事なのはモノの間にあるつながり、目に見えない ものを重んずること。目に見えるものだけではな いということを、ぜひわかってほしい」と述べま した。中世のモノが少ないとされる鎌倉にとって も支援となる貴重な見解といえます。

 

松浦晃一郎 ユネスコ事務局長が世界遺産アカデミーで講演
観光との関わりで地元の意識改革に期待を表明

8 月27 日、松浦晃一郎ユネスコ事務局長を迎え て、NPO 法人世界遺産アカデミー主催による「観 光と世界遺産」をテーマとした講演会とシンポジ ウムが東京・永田町の憲政記念館で開かれました。 基調講演した松浦事務局長は平泉の登録延期に 触れ、「枠組みを変えてもう一回検討して出直すと いうことなので、決して拒否ではなかった」と述 べました。また平泉の遅れで有力な世界遺産の案 件が「全体として残念ながら、ずれ込む見通しで ある。とりあえず平泉に集中してやる」との認識 を示しました。
主要テーマの観光との関係については「( 世界遺 産になることは) 観光客増につながり実質的な収 入にもなる。地域のアイデンティティをしっかり 確立することにもなる。それだけにそれをしっか りと守って、世界につないでいくという責任が地 域社会に生ずる」として、地元の意識改革を訴え ました。

 

養老孟司会長講演  
「頭の時代」に生きる高校生にエール

鎌倉市内の県立高校4校の生徒、関係者1200 人を 対象に鎌倉世界遺産登録推進協議会の養老孟司会長 (東大名誉教授)の講演会「ローカルからグローバル へ」が8 月28 日、鎌倉芸術館大ホールで行われまし た。先生の専門分野の解剖学の体験を交えて、考える ことの重要さを分かりやすい言葉で説き、世界遺産を めざすことは鎌倉時代に対する見方を持つことだとし て、人の死の意味を生徒たちに問いかけました。
講演要旨は次の通りです。
世界遺産は自然遺産と文化遺産に二分されるが、文 化は人間が作ったもので人でいえば意識の世界、自然 は体である。人生は両方で成り立っている。どちらか 一方ではだめである。 モノが分かる、モノを学ぶ、モノが分かるというこ とはどういうことか。「朝 (あした) に道を聞けば、夕(ゆうべ) に死すと も可なり」という論語の言葉があるが、「朝に道を聞く」 というのは学問をするということで、夕に死んでも思 い残すことはないという言葉である。
変わることを学ぶというが、問題になるのは「同じ 私」。死体が骨になるまでの姿を描いた「九相詩絵巻」 の骨の絵を見たが、あれだけ正確に骨の絵を描いたも のはない。鎌倉時代の人の目はそののちの日本人が考 える目ではない。非常に透徹した目である。あれだけ 死んだ人を見て、あれだけはっきり話に書いて残せる のだ。世界遺産といっても単に手続きの問題である。 分かってもらいたかったのは、ある時代、ある考えが ちゃんと僕の中に入っているということである。鎌倉 を本当に評価しているといえる。平安時代のような都 市社会、鎌倉時代はいわば「身体の時代」、江戸時代 になって「頭の時代」になる。今君たちは「頭の時代」 の中にいる。


「世界遺産登録のために今、何をしていますか?」
〜神奈川県、横浜市、逗子市、鎌倉市の取り組み〜

7月はじめの世界遺産委員会で平泉に「記載延期」 の結果が出たあとも、神奈川県、横浜・逗子・鎌倉 3 市では登録の早期実現に向けて、努力を重ねてい くことを確認しました。文化庁との協議に基づいて、 今後複数回の国際会議を開催し、それを受けて世界 遺産の推薦要請を行う方針を固めています。
さらに登録推進の一環として、世界遺産登録推進 協議会と加盟団体が中心となって10 月には筑波大 学大学院世界文化遺産学専攻教授の稲葉信子さんを 招いて「ガンバレ鎌倉シンポジウム」を開催、続い てワークショップ「みんなで考える世界遺産おすす めルート」、11 月には連続シンポジウム「世界遺産 と鎌倉の遺産相続問題」などを開催する予定です。
世界遺産候補地の一つ、横浜市の称名寺では、阿 字池の橋の架け替え工事を行っています。庭園と伽藍 が背後の三山と一体となって極楽浄土を表すというた たずまいで、池は寺院の景観の中核になっています。 中ノ島を中心に平橋と反橋(太鼓橋)が対をなしてい ますが、平成19 年度の工事としてまず平橋の改修工 事が終わり、次いで20 年度工事で反橋の改修が進ん でいます。昭和末に庭園の発掘調査で橋梁跡が見つか り、重要文化財「称名寺絵図」に描かれた通りの橋の 存在が確認されました。直後に絵図に基づいて復元し ましたが、その後20 年が経過し、腐食が目立ってき ていました。「このままでは危ないという判断で改修 を決めた」と横浜市教育委員会では言っています。
一方、名越切通を管轄する逗子市教育委員会では今 年度事業として、まんだら堂やぐら群の中にある元の 地権者が残してきた廃屋など5、6 か所の構築物を解 体撤去することになっており、9 月から工事に入りま した。天井は破れ、柱も折れ曲がり、風が吹き抜ける 状態で、このままでは世界遺産登録もおぼつかない状 況のところが多いと思われました。解体工事により、 候補地としての体裁を整えようという意味もありま す。こうした動きは平泉の決定にもかかわらず、世界 遺産登録に向けての歩みは変わらないという意思の表 れともいえるでしょう。

 

めざせ!世界遺産登録

鎌倉彫で世界に鎌倉をアピール    伝統鎌倉彫事業協同組合

鎌倉には守り伝えるべき自然や街並み、神社仏閣、鎌倉 時代から育まれてきた固有の文化があり、鎌倉彫もその中 の一つです。鎌倉彫は中世に起源し、以来人々の生活に密 接に関わってきました。現在、産地を形成するまでの発展 を遂げ、日本の誇る伝統的工芸品となっています。  伝統鎌倉彫事業共同組合は、地域団体商標「鎌倉彫」の 商標登録をめざし申請をしています。鎌倉は世界遺産登録 をめざしてします。共に不可欠な関係を保っていて、共通 の想いがあります。将来を見据えて手を携えてくために、 世界遺産登録推進協議会に参加して、世界遺産登録のため の様々な活動に参加しています。
 伝統鎌倉彫事業共同組合として、鎌倉まつり記念パレー ドの武者行列・アートで後押し、写真美術コンクール等に 積極的に参加、活動しています。またその一環で、組合の 代表である奴田不二夫さんが、推進協議会の事業部会長と して、推進協議会のPRや運営資金づくりのための事業を プロデュースする中心的な役割を引き受けています。  奴田さんは「鎌倉彫は、鎌倉を代表する工芸品の一つで あり、鎌倉の地域振興・普及・啓発に寄与することに役立 ちます。鎌倉彫という鎌倉固有の文化を世界に発信したい と考えています。」と、今後の抱負を語ってくれました。

 

頼朝公の遺徳を鎌倉全市に    源頼朝会

平成4 年、「武家将軍誕生八百年記念祭」を契機として、 古都鎌倉の歴史を勉強し、源頼朝公の遺跡の研究と顕彰を 行い、会員の資質を高め、古都の発展にも資したいと源頼 朝会は発足しました。この年には鎌倉の歴史的遺産がユネ スコの世界文化遺産への暫定目録に登載されました。鎌倉 世界遺産登録推進協議会発足と同時に源頼朝会のメンバー が広報部会と事業部会に参加し熱心に活動しています。
源頼朝は正治元年(1199 年)正月13 日に53 歳で死去 しました。源頼朝会では、毎月13 日には会員が相集い、墓 前の清掃や整備に励んでいます。清掃後は、小池会長より 頼朝公の事績、鎌倉幕府800 年の栄枯盛衰が説かれ、青空 教室の趣を呈します。世界遺産登録への道の険しさが報じ られる昨今、勉強研修と相まって頼朝公墓前の白幡神社境 内で講じられています。
毎年4 月13 日には鎌倉まつりの一環として頼朝公報恩会 にも参加します。盛大に墓前祭が挙行され、九州島津家32 代当主島津修 久( のぶひさ) さんも臨席されています。この墓地周辺の 土地は平成14 年に島津家から鎌倉市に寄付されました。
会を代表して推進協議会に参加している都筑健一さんは、 「歴史と伝統の宝庫である鎌倉に住む私たちの幸福を願い、 八幡宮前振興会を母体とする源頼朝会を結成し、頼朝公の 命日である正月13 日をもって、毎年、新春の寿ぎを行って います。遺徳を偲ぶ周辺地域の有志により頼朝祭を挙行し 広報誌を出版してい ますが、この頼朝会 の趣旨を鎌倉全市に 広めたいと念願して います。」と話して いました。

 

「古都鎌倉の世界遺産登録』ってなに?
第8 回 横浜・称名寺も古都鎌倉の一部なの?

鎌倉時代には鎌倉の東の境界とされた六浦(現在の横浜市金沢 区)は、政権都市・鎌倉の外港としても重要な拠点でした。その六 浦を拠点とした金沢北条氏の氏寺として建立された称名寺の境内 には、発掘調査の結果と鎌倉時代末の絵図に基づいて復元された庭 園や、もともと僧が行っていた墓塔を建てる習慣を武家が取り入れ たことを示す金沢北条氏一族のものとされる墓塔があります。 金沢北条氏は、古代・中世の政治、歴史、文学、仏教等に関す る書物を集め、金沢文庫に収めました。金沢北条氏滅亡後は称名寺 が管理した金沢文庫の書物は、戦国大名の北条氏や徳川氏などに持 ち出され、鎌倉の武家の教養が後世の武家に影響を与えることにな りました。
また、鎌倉幕府の執権を務めるなど政権の中枢にいた金沢北条 氏ならではの、当時の政治情勢を伝える書状や、鎌倉の寺院間の茶 の贈答、称名寺や鎌倉の宅間ヶ谷に茶園があったことなど、禅宗寺 院以外にも喫茶の風習が広まっていたことを示す文書などが伝わ っています。
このように称名寺は、鎌倉時代の武家の教養や文化を様々な形 で今に伝える貴重な遺産です。

 

武家の古都・鎌倉塾◇第1 回講演要旨
「鎌倉幕府はなぜつくられたのか」

講師 関 幸彦さん(日本大学文理学部教授)   2008 年5 月10 日 於:鎌倉芸術館 会議室

鎌倉幕府はなぜつくられたかという問いには、百 人いれば百通りの回答がある。歴史学というのは5 W1Hの基本的な事実認識を前提にして、その広範 な部分を解釈していくということなので、今回の私 の話も私なりの解釈であり、確定されたものではな い。文献史学の立場から、鎌倉の幕府、あるいは鎌 倉の政治権力体が日本の中世、日本の歴史全体のな かでどういう位置を占めたのかという、甚だ漠然と した大きなテーマのなかでお話しする。
<至尊と至強>を朝廷と幕府で分った日本の中世 武家政権を日本の歴史が持った幸せと不幸、その 両方の側面を見ていくとき、私はどちらかというと 鎌倉幕府の独自性、自律性を評価する。中国や韓国 は、皇帝という一極集中型の権力体で構成されてい る。<至尊と至強>はかつて福沢諭吉が用いた表現 だが、中国や韓国はこれが一人の皇帝に収れんされ ている。ところが日本では、至尊としての天皇と、 至強としての最も強大な武力を持った将軍がイコー ルではない。これが武家政権を持つにいたった日本 の政治構造の特徴である。
2つの権力構造をもつ双軸の楕円国家へ
別の言い方をすれば<至尊と至強>が分裂してい く、という経過を鑑(かんが) みたとき、日本は10 世紀から 12 世紀の間の200 年間の時代を経過する間、畿内 を中心にした天皇を軸にした同心円状の権力をもっ た国家であった。しかし西と東の水圧がほぼ均一の 形で平均化されてくる場面が現れる。西高東低とい う古代国家のありようというものが、10 世紀以降、 徐々に変質をきたして、鎌倉殿という一つの王が東 国に誕生し、この王を中心にしながらもう一極の政 治的磁場が鎌倉を軸にして成立した。依然として京 都には天皇を核とする磁場を持った貴族を中心にし た政権が同心円的渦巻きとして在り、同時に鎌倉を 軸にしながら、東国の方の鎌倉殿を王とする一つの 王権集団が、同心円的に渦巻き状に回っている。と いうことは、日本は京都を中心とする磁場を持った 公家の権力体と、鎌倉を磁場とする武家の権力体が ふたつあったということで、ここに双軸の楕円国家 が誕生する。楕円国家という、隣の中国や朝鮮とは 異なる国家権力のスタイルというものを、わが国は 体験することになる。
京都との距離感を置くことにより武家政権を確立 鎌倉幕府はなぜつくられたのか。鎌倉幕府の評価 はふたつある。鎌倉幕府を公家政権の体制内での、 あくまで侍大将としての位置づけ、小さな軍事権門 としての位置づけ。もうひとつは鎌倉幕府を一つの 小国家、地域の自己主張を兼ね備えた独自の権力体 とする見方である。
頼朝は鎌倉を拠点に政治権力を高めた。なぜ頼朝 は京都に行かなかったか。頼朝は13 歳まで京都で 過ごしている軍事貴族だ。武士という草深い農村か ら出発した人たちの御輿(み こし)に担がれた。そういう存在 だから、頼朝は汗水たらして開発領主になり、武士 になったわけではない。頼朝は、武家が京都との距 離感を持ちながらどのような政権を作っていくかを 考えていた。鎌倉というこの場所に拠点を据えなが ら京都との距離感を保とうとした。その適当な距離 感が鎌倉の幕府に自律性を与えているという側面が ある。頼朝は、独裁的なカリスマ性を持つことによ って、鎌倉殿という自己を調教し磨きあげていく。 その際、最大のポイントは官職にからめとられない ということであった。
朝廷からの官職の呪縛を断った頼朝のカリスマ  官職は非常に魅力的である。頼朝は武士が京都と 自分を通さずに直接的に結びつくことを厳しく禁じ た。鎌倉幕府は、構造として京都との関係においては、 官職との距離感をもっていた。鎌倉幕府の自律性と か独立性は、日本国である以上完全な自律や独立はあ りえない。そこで京都との距離感を保った。京都の中 央国家を中央国家たらしめるポイントはどのような人 物であっても、そこに官職を与えて天皇との距離を測 る、官職に就任することによって、王朝勢力に包摂さ れかねない。江戸時代でさえ、徳川将軍は内府、御三 家は大納言、中納言、薩摩は島津中将家であり、官職 の呪縛から自由ではなかった。多少でもその呪縛を断 ち切ろうという意思を明瞭にした頼朝は、自らを<鎌 倉殿>と称した。
天の時がもたらした<鎌倉殿>の誕生
頼朝が挙兵する、天の時、1180 年代を高く評価する 考え方がある。1180 年の8 月挙兵、12 月の時点で 鎌倉の政治権力は樹立されていく。そこから始まっ て内乱の10 年、第1 期、源平の争乱は1185 年3 月 24 日壇の浦の合戦で平氏を討伐することによって、 対平氏戦略は終わる。第2 期の内乱は、対奥州戦争の 5 年間、義経に関しては、勝ち組としての義経から、 敗者の義経に変貌する。
吾妻鏡の治承4 年4 月、以仁王と源頼政が平家に反 旗を翻す。頼朝挙兵は平家が世を取って20 年、平家 は福原に都を遷し清盛は宗教勢力に対抗した。これに 対して、東海東山北陸に以仁王の令旨は広まった。こ れが天の時。平氏政権の持っている急進的な権力の掌 握の仕方があらゆる部分と衝突し始める。それが以仁 王の令旨と相まって、源氏に天の時を与えていく。こ の間、頼朝は伊豆半島の流人として20 年の歳月を過 ごす。
鎌倉の主と仰ぐ、<鎌倉殿>誕生の瞬間は12 月12 日、都市鎌倉の誕生でもある。
北条氏も官職に対して恬淡としているが、それと対 照的に<鎌倉殿>にこだわった。のちの執権北条高時 は<鎌倉殿>と称し、実質上の鎌倉の主であることを 天下に示している。鎌倉という風土にあって、頼朝の 政策、鎌倉殿の政策が原点となり、東国の王としての 原点を守っていく。鎌倉幕府以来750 年の長きに亘 って続いた武家政権の原形質が、<鎌倉殿>の誕生と ともにつくられたのだ。日本の歴史に天の時が訪れる。 地の利は武力の集中、人の和は頼朝のカリスマ性 武家政権が誕生した折の地の利は何か。蝦夷戦争 と のかかわり、関東と東国という地域ブロックは兄と弟 の関係だ。この兄弟関係にも似た地域同志の相克が、 中央にとっては征夷の対象とされた。東は常に警戒す べき地域だから、そこに関を置いた。そこからさらに 北にあるのが東北。古代政権は、この東北をフロンテ ィアでなくする運動をしている。蝦夷戦争から奥州合 戦までの長期の東北との戦いの中で、征夷に対する認 識が強く観念された。東 国の武力的な基盤の形成 は、蝦夷たちとの戦争を 通してそこに武的な先進 地域、武力の兵たん基地 としての関東の役割が生 まれた。
関東は、武器や船、人間 ( 兵士)を用意しなくては いけない。鎌倉への道は、 そこに拠点を据えるだけ の地勢的な意味があった。 人の和は、頼朝という人物の個性によってつくられ た。頼朝は一種の差別論者、集まってくる人たちに、 段階をつけていく。頼朝は門閥という形で差別する。 源家の一門か否かで、先天的に得られるものを優先し た。舅の北条時政でさえ国 守(くにのかみ)のポストを与えられたの は頼朝の死んだあとである。
<福原の夢・海洋国家構想>と楕円構造の国家
平氏の政権、源氏の政権はともに中世という時代を はぐくんだ重要な政権だ。よく平氏は古代的で、源氏 の鎌倉幕府は中世的であり、時代の差がそこにあるか ら平氏は滅ぼされたというが、けっしてそうではない。 平氏の政権も源氏の政権も中世的で、共通の分母、母 体を持ちながら、一方では、平氏の政権というのは、 福原を軸にしながら海洋国家構想とよばれるように、 「福原の夢」というものを想定することによって、東 アジアと同居するスタイルを設定する。これは平氏政 権の一つの政権構想である。同じ中世のなかであって も、頼朝の国家ビジョンというのは、海洋国家構想と は別個の構想である。東アジアとは同居しない形、同 心円的な権力構造から楕円構造という軸を二つ持った 双軸的な国家体制、というのを結果として頼朝は持っ たことになる。
平泉、福原、鎌倉は古代からの脱却を図った<三都>
平泉、福原、鎌倉という三都、福原と鎌倉は紛 まご うこ となく海というのを視野に入れている。なぜ平氏が福 原に自らの都を移したか?なぜ武家は鎌倉に都をつく ったか、古代からの脱却、内陸志向から外に向けての 構想が明らかにそこにあった。

 

News! the 世界遺産

いざかまくらトラスト発足記念・いざかまくら塾第1 回
伊藤正義さん講演「鎌倉を護る龍神」を開催

6 月29 日(日)、鎌倉商工会議所ホールで、いざかまく らトラスト主催、推進協議会共催によりた講演会が開催さ れ、いざかまくらトラスト代表で、鶴見大学教授の伊藤正 義さんが講演しました。以下はその要旨です。
いざかまくらトラスト発足のきっかけ
 去年の10 月に鎌倉に招かれて、鎌倉の周囲の山が龍 体、龍神に見立てられ、それに護られているという話をし ました。また母の胎内に抱かれているような、武士たちに とって安心できる憧れの理想境だったという話をしたとこ ろ、ちょうどいろいろな場所で緑地保存を考えている市民 の方々から、それは非常にいい概念なので、ぜひそれを広 めて保存運動につなげようということで、私がトラスト運 動の代表にということになりました。私は13 年間、文化庁 で遺跡の保存・調査をしてきましたが、本来、文化財を護る、 歴史遺産を護るという主体は地元、地域にあるのではない かと考えていました。御谷を護る運動、古都法の成立のき っかけになったのがこの鎌倉です。鎌倉が日本のトラスト 運動の出発点であったということは、世界遺産をめざすう えでも大きな足掛かりのひとつになります。
鎌倉城という言葉が独り歩きしていた
 今から10 数年前に、鎌倉市の世界遺産登録がなかなか 進まない段階で、城塞都市という言葉を使って京都や奈良 と差別化しようという動きがありました。ちょうどその頃、 実は鎌倉城はないのではないかということを最初に精密に 論証した、中澤克昭さんという人の論文が出たこともあり、 また、それまで一度も、鎌倉の山稜部の本格的な調査が行 われていなかったため、平成11 年から2 年間かけて山稜 部の発掘調査を行いました。結論をいうと、鎌倉の初期、 12 世紀末に上る遺構や遺物は一つもでませんでした。山稜 部に遺構や遺物が出始めるのは、日本が蒙古の襲来を受け た13 世紀の後半からだと分かったのです。
鎌倉は、先祖の霊と神仏に護られた安心の地
 頼朝は鎌倉を本拠地とすることによって、父義朝や最初 に鎌倉を本拠地に定めた頼義等祖先の力を身に着けること ができると考えていました。頼朝は、自力で、京都の朝廷 を支配する後白河院に逆らって、自分の実力でこの東国を 支配していきます。そのために、神仏の加護、先祖の加護 を受けないと持ちこたえられないのです。鎌倉は先祖の霊 があり、また元八幡社にいた観音菩薩によって護られた地   です(五味文彦)。そして、大倉幕府は内陸にちょっと入っ た隠 国型(こもりこくがた)の非常に安心できる空間でした(樋口忠彦)。つま り、頼朝が鎌倉を選んだのは、先祖の霊と神仏に護られた、 安心できる空間だということがポイントだと考えています。
日本は龍体によって護られる 
 県立金沢文庫に「日本図」の一部が伝わっています。日 本を密教法具の独鈷杵(と っこしょ)に見立てて、その周り、日本の周囲 を龍が取り巻いて護っているという絵です。これは、モン ゴルの脅威におびえる鎌倉幕府が、蒙古調伏の加持祈祷に 使ったと考えられています(黒田日出男,西岡芳文)。また 江ノ島の縁起に、弁財天が龍を飼いならして鎌倉を護らせ たという伝承があります。
 私は明治15 年ころに測量した陸軍迅速図、江戸時代と ほぼ同じ景観を保っていたころの地形図から、腰越と龍口 寺の間の谷が龍の口に見えることに注目しました。研究の 結果、龍の口の刑場跡は、鎌倉時代には神戸川(ごうどがわ)の河口あた りだったと考えています。龍神は日本を取り巻いているだ けでなく、鎌倉の山を龍に見立てて鎌倉を取り巻いて護っ ていると考えたのです。高僧たちは加持祈祷によりその龍 を元気にしてモンゴルの襲来から日本を護ろうとしました。
古都鎌倉の景観を次の世代に伝えるために
私たちは、龍によって守られていると、祖先たちが考え た、この素晴らしい景観をできるだけ損なわずに次の世代 に伝えていく義務を負っております。ところが、法の網が 及ばない、規制が及ばないところでは、ミニ開発によって、 龍の体がどんどん蝕まれています。私たちは現在と将来の ことには非常に思いを馳せます。しかし私たちがいま生き ていることを考えたら、実は私たちは、死者たちとの契約 によって、現在の命をいただいているのです。世界遺産に 鎌倉を登録するということは、この龍神の龍体を護り、死 者の恩に報いることなのです。

 

鎌倉世界遺産候補地をビーズ刺繍で表現〜米国で初個展

世界遺産を目指す鎌倉を世 界に知ってもらうことが重要 性を帯びてきました。かつ てのミス鎌倉の金谷美帆さん は、206 万粒のビーズを使っ て、「現代鎌倉絵図」を制作、 今秋、日本大使館の協力を得 てワシントンの日本大使館広 報文化センターで個展が開か れ、国際デビューを果たしま した。
絵図は横3 メートル、高さ 1.8 メートルの大作。横幅50 センチずつ6 枚の短冊 型で3 年がかりで制作しました。地は黒のビーズで渋 く仕上げ、金色のビーズで鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺、 鎌倉大仏など世界遺産候補地となっている史跡の大半 を織り上げました。日本最古の築港跡である和賀江嶋 は三艘の帆掛け舟で表現しています。鎌倉の史跡の特 色である一升桝遺跡や北条氏常盤亭跡など埋蔵遺跡に ついては、構成が煩雑にならないように除外しました。 「ケーブルテレビのアナウ ンサーを伊豆でやっていて、 給料制で洋服を買えなかった ので、ビーズのアクセサリー を作ってお洒落のファッシ ョンにしていました。仕事に 行き詰ったときに、家に引き 籠ってできることは何かな と考えたものです」
まずビーズを織って着物 に挑戦しました。春夏秋冬 4 枚の着物の連作の中で秋の絵柄のものは、熱海の能 舞台で披露されました。源平池のハスに続いて、右目 を射られながらも奮闘したという平安末の武将・鎌倉 権五郎景正(政)の顔を歌舞伎絵で織りました。
「鎌倉全体が1枚の作品でわかるようなものを作っ てみたかった」というのが、鎌倉絵図制作の発想でし た。金谷さんは神奈川県有数の進学校である県立湘南 高校から学習院大学に進みました。浄光明寺住職だっ た故大三輪龍彦さんは、高校、大学の数少ない先輩 で、それが縁となって私淑しました。大三輪さんは 鎌倉の世界遺産登録推進者の一人で中世史学者でし た。生前、鎌倉時代の地形復元などにかかわっており、 絵図制作のヒントをもらいました。
芸術館で総ビーズ織り着物の展示をしたとき、見学 者の米国の日本大使館関係者からワシントンでの展 示の打診を受けました。2010 年に鎌倉が世界遺産に 登録されるかも知れないという話が出ていたときで、 登録にあわせて絵図を作っていこうと漠然と考えて いました。ワシントン展が決まると、制作にも熱が こもってきました。正確なイメージを固めようと、2 年かけて世界遺産の候補地になっている鎌倉の神社 仏閣を回り、写真を撮ったり、スケッチを重ねて下 絵を描きました。そしてワシントン展が決まったの です。
「世界的に見ても頼朝が幕府を置いた1100 年代に 天皇家とか貴族ではなく、武家が権力をもって国を 統治したというのは、すごいことだと思います。徳 川幕府滅亡まで700 年間、幕府体制が続いたことを 再評価すべきです。フランス革命とか、米国の独立 戦争などよりはるかに前に武家による革命が歴史を 動かしたのです」
金谷さんは制作を通して学んだ鎌倉の世界遺産とし ての真価を語りました。オリジナルな技法を駆使し て鎌倉を描くアーティストの感性は果てしなく羽ば たいていくでしょう。

 

Event! the 世界遺産

武家の古都・鎌倉連続シンポジウム(18)「世界遺産と鎌倉の遺産相続問題」

鎌倉の街並みが消えていく原因の多くは相続税にあるといわれています。新たに 公益法人制度が設けれらたのを機に、街並み保全やお邸の活用へ、新鮮な視点からお話しします。
プログラム   (1)報告「公益法人制度改革と鎌倉風致保存会」 小金丸良 鎌倉風致保存会事務局長  (2)映像紹介 (3)基調講演「世界遺産登録と鎌倉のまちなみ」 西村幸夫 東京大学大学院教授 
(4)シンポジウム「見えてきた可能性 鎌倉のまちなみ景観保全」
 パネリスト 西村幸夫さん/菅 孝能さん/ 波多 周さん/比留間彰さん/コーディネーター 田川陽子さん
とき/平成20 年11 月16 日(日)午後1 時30 分〜 5 時 ところ/鎌倉商工会議所 地下ホール 
参加料/ 1,000 円   主催/鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会   共催/鎌倉世界遺産登録推進協議会
申込方法/住所、氏名、電話、FAX番号を記入してハガキまたはFAXで下記へ  定員/ 150 名(先着順) 
申込・問合せ先/〒248-0012 鎌倉市御成町9−1鎌倉風致保存会内 鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会事務局         
FAX .0467‐23‐6631   締切/平成20 年11 月10 日(月)

午前中は<守りたい 鎌倉のまちなみツアー(1)>ぜひご参加ください!
別荘建築やみどりが美しい鎌倉のまちなみを専門家と見て歩き!そのあとシンポジウムへ・・・
コース(予定) 鎌倉駅西口 ⇒ 小町通り ⇒ 若宮大路 ⇒ 文学の小径 ⇒ 旧大佛邸 ⇒ 県立近代美術館
       ⇒ 旧川喜多邸 ⇒ 寿福寺 ⇒ トンネル ⇒ 古我邸 ⇒ 旧とり一 ⇒ 市役所屋上 
       ⇒ 御成小脇歩道  ⇒ 旧安保小児科医院(鎌倉風致保存会) ⇒ 鎌倉駅西口 とき/ 11 月16 日( 日)午前10 時(鎌倉駅西口集合) 〜 12 時(解散)の予定
資料費/ 500 円(当日)  定員/ 150 名(先着順)  ※お申込方法は上記シンポジウムと同じです。
※ 小雨決行。当日朝9 時に決定します。主催事務局 Tel .0467-23-6621 ( 鎌倉風致保存会内)までお電話ください。

Watch! the 世界遺産

7 月末から8 月初旬にかけて、町田店と藤沢店で、世界各地の世界遺産を紹介した「ベ スト・オブ・世界遺産展」が順次開催され、同時に鎌倉の世界文化遺産 候補の社寺や遺跡などを紹介した写真パネルの展示が行われました。1 万人以上の方々が来場し、「鎌倉も他の世界遺産と同じぐらい素晴らし いですね」などの感想をお聞きしました。

鎌倉世界遺産登録推進協議会ホームページ只今更新中!

http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/

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編集後記  

 8 月27 日に鎌倉の世界登録について、文化庁から神奈川県・ 横浜市・逗子市・鎌倉市へ「複数回の国際会議を開催し、ユネ スコへの推薦書原案について国際的コンセンサスを得る取り組 みを進め、その熟度・練度が高められた場合には、来年度に推 薦要請を受け付けることは可能であるが、登録年次は明らかに できない」という意向が示されました。平泉の次は鎌倉という方 向が見えてきましたので、私たちも一層の努力をしたいものです。 近藤誠一前ユネスコ大使と松浦晃一郎ユネスコ事務局長の講 演は世界遺産の課題について、鎌倉にも貴重な示唆を与えてく ださいました。
養老孟司会長の講演は、高校生にも鎌倉時代等の人間の生き 方を身近に感じさせてくれました。 以上の講演と4 県市の取り組みの状況およびビーズアートで 鎌倉の世界遺産をワシントンの日本大使館で紹介する記事は、 いずれも編集委員の高木規矩郎さんが取材してくださいました。 鎌倉塾の関幸彦さんと、いざかまくらトラストの伊藤正義さん の講演は、鎌倉をよくご存じの専門家の方からの提言ですので、 鎌倉の世界遺産についての具体的な背景を改めて認識できまし た。             <広報部会長 内海恒雄>


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