鎌倉世界遺産登録推進協議会
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武家の古都・鎌倉ニュース第10号

 

ガンバレ鎌倉シンポジウム開催
世界遺産登録の実際と鎌倉登録の可能性を探る

鎌倉世界遺産登録推進協議会、神奈川県・横浜 市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会主催 の「世界遺産登録にむけて ガンバレ鎌倉シンポ ジウム」が平成20 年10 月11 日、鎌倉女学院 陸 奥記念ホールで開かれ、稲葉信子さん( 筑波大学 大学院世界文化遺産学専攻教授) の基調講演に続 き、工藤父母道さん( 社団法人日本ユネスコ協会連 盟評議員)、三浦勝男さん( 鎌倉国宝館館長) を迎え、 伊藤一美さん( 国指定史跡北条氏常盤亭跡保存管理計 画策定委員長)」がコーディネーターとなってパネル ディスカッションが行われました。会場には約100 人の市民が参加して、3 時間にわたる熱い議論に耳を傾けました。
◎  「世界遺産登録の現状〜
稲葉信子 世界文化遺産学教授に聞く〜」講演要旨
1992 年、日本政府が世界遺 産条約を批准してから、文化 庁で文化遺産の専門官として 世界遺産条約と真正面から付 き合ってきた。
1972 年にユネスコで条約が 採択されるまでの間、( 貴重な 遺産を) 祖先から受け継いで将来に伝えていくた めに、ユネスコでは条約を作る準備が進められた。 まず先立つものとして世界の文化遺産を守るた めの予算を、ユネスコがどうやって集めるのかと いうことがあった。各国とも一般から集めるのか、 政府が出すのか、総論賛成各論反対の状況で、48 年から71 年まで時間がかかった。60 年から70 年 にかけて世界遺産の基とされるエジプトのアブシ ンベル神殿移築の第一期工事が行われた。併行し て、国際キャンペーンを条約の形で効果的に進め ようと世界遺産条約をつくる仕事が進められた。 世界遺産リストをどのように整えていくかとい うのが、根本的な問題である。ユネスコで考えて いるのは、リストとは国際協力の優先リストのこ とであり、国際協力の手続きのことでもある。現 在878 件の世界遺産があり、うち30 件(2007 年7 月現在) は危機遺産である。登録が厳しくなって いるという議論の中で878 件をどのように見るの か。いくらあってもいいではないかという議論も あり、もうすでに多過ぎるという意見も聞かれる。 世界遺産条約は出発点から顕著な普遍的価値 (outstanding universal value) という一つのラインを 引いている。この基準について議論が続いている。 92 年から約20 年間に世界遺産を巡る状況はずい ぶん変わってきた。30 周年を経て40 周年に向け て、これからどうしていったらいいのか検討をし ているところだ。第一に枠組みの充実、第二にリ ストの信頼性の確保、第三に適切な保護管理、モ ニタリング・システムの確定などが主な検討課題 になっている。
90 年頃までは、確かにヨーロッパのキリスト教 の考えに偏っていたと思う。そこで人の交流を精 神的・構造的に考えようとした成果の一つが文化 的景観である。多様性を重視した新たな言葉で生 きている伝統を見直そうとしたものだ。文化的景 観とは自然と人間の共同作品であり、自然と人間の多 様なかかわりを示すものとも理解された。人は自然か ら隔離されてできたものではない。92 年に文化的景 観が世界遺産の仕組みの中に取り入れられた。ブラジ ルのリオデジャネイロで地球サミットが開かれ、持続 可能な開発という理念が広まった時で、世界遺産でも 持続可能性の確保が図られた。 現在の文化遺産の世界でのキーワードは自然と の共生、土地の持続可能な利用、文化の多様性、 生きている遺産である。登録のために最も重要な 『顕著な普遍的価値』の構築にあたって、失敗する ことがあるとしたらそれは何か。『顕著な普遍的価 値』については広すぎるか狭すぎるかの判断が問 われる。人間の自由だとか平和というと広すぎて 困る。ある建築のタイプというと狭すぎる。その 中間の価値をどうやって構築していくのか。国境 を越えてその価値をどうやって広めていくのか。 必要に応じて比較研究もしなくてはならない。国 家的価値がそのまま世界的価値を持つわけではな いので、十分な検討を加える作業が必要になる だろう。

 

ガンバレ鎌倉シンポジウム・パネルディスカッション
『世界の中の鎌倉〜登録を実現するために〜』

◎ パネルディスカッションの発言要旨は次の通り。 (伊藤)なぜ鎌倉にたくさんの人が集まるのか。鎌 倉はどんなイメージが持たれているのだろうか。
(三浦) 脚はこの地、眼は世界に。鎌倉は世界に一つ しかない。武家政権の文化とか遺跡がわずか1メー トルの地下に残っている。大いに威張っていい。日本 の宝であり、世界の宝にもなる。
(伊藤)世界の宝をどのように考えるべきなのか。
(工藤) 和歌山県で高速道路延長のための測量で、 世界遺産・熊野古道沿いの立木が何本も伐られた。 原爆ドームのバッファゾーン内で、マンション建設に よる景観破壊も問題になっている。世界遺産登録は、 それを守っていくということの世界への意思表示でも あるが、さまざまな問題が起こっている。課題の多い 世界遺産条約ではあるが、この条約を進化させてい かねばならない。鎌倉の世界遺産登録の推進は、一 方で大変な責任を将来の子供たちに背負わすことに なる。私たちの思いだけでなく、世界遺産の意義と 重要性について、次の世代へのしっかりとした啓発こ そが最も重要だ。
(伊藤) 世界から鎌倉を見たらどのように見えるか。 外国人が鎌倉にたくさんやってくる理由は何か。
(三浦) かつては、仏像を買いたいのだがどれぐらい あるのかと聞かれたことがあった。大きく変わってきて いるのは、外国人はよく調べて鎌倉に来ているという ことだ。鎌倉の柱となるような歴史・文化が一見して わかるような体制になってほしいと思う。
(工藤)「古都鎌倉の寺院・神社ほか」から「城塞都市」、 「武家の古都」へと世界遺産をめざす考え方は変わ ってきたが、これは一つの成果ともいえる。漠然とし た鎌倉の文化遺産としての骨格を示すからだ。しか し果たしてそれで十分なのか、もうひとひねりだと思 う。その上で、世界遺産としての顕著で普遍的な価値、 完全性や真正性が問われるのだから、確固たる価値 証明の構築が必要となる。それは鎌倉の誇りである 文化遺産としての価値をより高めることにつながる。
(稲葉) 鎌倉にある文化財の価値をもう一度見直して、 そのそれぞれに、そしてその繋がりにどのような顕著な 普遍的価値があるかを考え直さなくてはならない。地 元の文化財としての価値、国の文化財としての価値を そのまま並べるだけでは顕著な普遍的価値とはならな いが、しかしそこが出発点であることも確かである。
(三浦) 若宮大路などを外国人に案内したことがある。 「印象に残るものはない。分からない」と言っていた。 顕著な普遍的価値とは日本的価値が世界的価値に つながることである。とにかく継続が大事だ。グロー バル化というが欧米化することではない。大勢の理 解を得ることは大事だが、鎌倉らしさとか日本の心を 捨ててはいけない。脚は鎌倉の大地に、眼は世界に 向けよとして鎌倉女学院などでも熱心に取り組んでい る。子どもたちを含めた人の輪を、少しでも大きくし ていくことだ。
(稲葉)私はもともと建築が専門なので、町並みとか 景観保全にかかわってきた。そこで規制を押し付け られると、嫌になってしまうという住民の傾向を見てき た。人々はそれぞれのこだわりで生きているのだ。地 元ではどのように考えて自らの価値を高めようとしてい るのか。全体を統一する鎌倉のイメージとは何なの かを考えたい。外国人を招待したり、小学生が鎌倉 を回る時にどのように回るか。そのモデルが必要だ。
(伊藤)モデルについては「かまくら子ども風土記」 というベストセラーがある。50 年ほど前に作成され、 児童用ではあるが、一般来鎌者にも重宝されている。
(工藤)一つ気になることがある。国際基準で評価さ れなくてもよいが、世界遺産にはなってほしいという。 まったく矛盾している。鎌倉は世界遺産にならなくて も十分価値はある。にもかかわらず皆さんが登録した いと願うのは何故なのか。鎌倉の文化遺産としての 国際基準での客観的な評価を知るうえでも、世界遺 産登録の推進活動の意義はある。そうした中で、私 たちがこれまで気付かなかった視点で、より多くのこと を改めて学ぶ機会となるからだ。
(伊藤) プロセスが大事ということだと思う。結果とし て登録されたら、子供たちの世代に責任とともにつ ながっていくということを、再確認していただきたい。 

 

武家の古都・鎌倉シンポジウム(18)開催
「世界遺産と鎌倉の遺産相続問題」講演とパネル討論

平成20 年11 月16 日(日)、鎌倉商工会議所地下 ホールにて、<武家の古都・鎌倉連続シンポジウム(18)> が開催されました。この連続シンポジウムは、鎌倉の世 界遺産登録を市民の手で実現することを目的に、鎌倉風 致保存会に事務局を置いて平成11 年に設立された、市 民の運営による「鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会」 が半年に1 度開催を続けているもので、今年は足掛け9 年目、18 回目を数えます。当推進協議会が発足した後の 14 回目からは、推進協議会が共催参加しています。
 今回は、いよいよ世界遺産登録申請を間近に控えて切 実な問題となっている、現在の鎌倉のまちなみ景観保全 について、東大大学院の西村幸夫教授の講演を伺い、そ の後に地元の景観保全や邸園文化圏構想を実践している NPO の専門家のパネルディスカッションを行いました。  まず、シンポジウムの冒頭に、鎌倉風致保存会の小金 丸良事務局長から、鎌倉風致保存会が公益法人制度改革 に伴い、寄付金の優遇措置が受けられる公益財団法人と なる事の意義が紹介されました。これにより、鎌倉風致 保存会に土地や建物を寄付した場合、個人は寄付金控除 の対象となり、法人は寄付金の損金算入が可能となるた め、相続問題等で寄付を希望されたとき、その受け皿に なることが可能になりました。これは、鎌倉の遺産相続 問題に一筋の光明をもたらすものです。続いて「鎌倉の まちなみ― 10 年前と今」の映像が紹介されました。
 基調講演は、西村幸夫さんから、施行されたばかりの「歴 史まちづくり法」など、専門家の立場から非常に実践的 な景観保全の手法を具体的に教えていただくという、大 変貴重な講演でした。この講演要旨を、次ページに掲載 しています。
 シンポジウムは「見えてきた可能性 鎌倉のまちなみ 景観保全」として、パネリストに西村さん、小金丸さん、 NPO 代表の菅孝能さん、波多周さんを迎え、田川陽子さ んをコーディネーターとして、鎌倉市内で実践されてい る景観保全活動について、その現状と市民の努力、将来 展望を会場の参加者とともに熱心に話し合いました。  歴史的価値ある鎌倉の景観を未来につなげていく重要 性と、その方法を具体的に検討した討論となりました。

はじめての鎌倉まちなみツアー☆鎌倉の景観を観賞しました

武家の古都・鎌倉連続シンポジウム第18 回のテーマ は「世界遺産と鎌倉の遺産相続問題〜失われていく風景 を取り戻せるか〜」です。世界遺産登録の候補となる国 史跡とともに、バッファゾーンの対象である鎌倉市街地 のまちなみが世界遺産都市にふさわしい景観なのかどう か、午後のシンポジウムに先立ち午前に実施されました。  鎌倉には寺社や史跡をめぐるツアーは数多いものの、 まちなみ景観をテーマとするものは多くありません。今 回は鎌倉駅から半径約1.5km 圏内の小町・雪ノ下・御成 町界隈とし、テーマを
(1)鎌倉らしいまちなみの確認
(2)失われたまちなみの現状 
(3)行政や事業者による景観
の創出 としました。
 参加者は約60 名、ガイドは市都市景観課職員と地元 の建築家が行いました。主なポイントは下記の通りです。
●市役所屋上から駅周辺ビルの屋上看板抑制の状況
●整備された御成小学校横の歩行者歩道と保全活用が望まれ る講堂
●旧安保小児科医院をはじめとする市重要景観建造物の現状
●駅周辺ビルや店舗サインの色彩コントロール
●市指導要綱による若宮大路の建築物の高さ15m への抑制
●住宅地における準公共空間の創出
●邸宅跡地のミニ住宅開発および駐車場化の様子
●保全が求められる県立近代美術館本館
●市に寄贈され 現在記念館建設中の旧川喜多邸とその周辺
●当日公開された鎌倉三大洋館のひとつ古我邸の庭園
●新しい緑景観を創出した邸宅跡地開発 など
 予定のルートは一部割愛されたものの、ほぼ所期の目 的は達成されました。 

 

武家の古都・鎌倉シンポジウム(18)基調講演 要旨
「世界遺産登録と鎌倉のまちなみ」 西村幸夫さん  (東京大学大学院教授)

生きているまちが世界文化 遺産になるためには、日頃の 努力が必要だ。鎌倉でも、看 板がなくなったり、色が落ち 着いたりしているが、住んで いる人は気がつかない。10 年で変ったというのを認識す るのは重要である。今までの鎌倉の努力というのは「お願 い」だったが、ひとつには世界遺産登録や、景観法の景観 団体になるなど、コントロールに強制力を持たせることが できるようになった。世論が深まっていけば非常に細かい コントロールのできるところにたどりつく。今はその詳細 化に向けているなかにある。
今日私がお話しする1 点目は、ひとつは邸(やしき)の敷地が、相 続が発生して分割されてしまうようなときに何ができる か。そういうときに世界遺産のバッファゾーンをうまく運 営していくのは非常に重要な課題だ。2 点目は、世界遺産 になって生きている都市では、コアの部分は非常に重要な ので守られているが、バッファの部分は普通に人が住んで いるのでいろいろな問題が起きる。その問題に対してどう いう議論がされているかということ。3 点目は、皆さんの 関心のある平泉の登録延期について、平泉というのは鎌倉 に似ているので、どういうことが議論されているかをお話 ししたいと思う。
相続問題とナショナルトラスト
まず、土地に相続が発生したとき何が起 こるか。その時何かできないかというのは 世界中で問題になった。実はイギリスのナ ショナルトラストができた理由はそれが大 きい。ナショナルトラストに土地を寄贈す ると相続税が減免される。なおかつそこに 住み続けられる。所有はナショナルトラス トのものになるから、ある部分は公開しな くてはならないが、居住部分の半分から3 分の2 くらいは住み続けることができる。 日本では、財団を作ってそこに寄贈するこ とで相続税をスキップできるが、そのかわ り、そこに住み続けることはできない。その邸は完全に死 んだ建物となる。そこのルールをうまく変えられないのは 日本の現状だ。そのために風致保存会が寄付を受けてそこ を管理するようになるというのは一つの案だ。ただこれは 長期の課題で今すぐできるものではない。
地区計画による敷地規模のコントロール
もう一つのルールの作り方は、敷地規模をコントロール すること。これは今の法律で、最低限敷地規模をルール化 できる。たとえば100 坪以下の敷地にしてはいけないと いうのを、地区計画で定める。合意をとるのが難しいかも しれないが、やるとすればこういうことしかない。市全体 はできなくても、住民が発意して自分たちの住んでいるま ちの景観を守るため努力すれば、そこだけはできる。
景観条例による<景観重要建造物>の指定と相続税減免
もうひとつできることは、景観法の下で景観条例を生み 出し、景観重要建造物というのを定める。これを定めると 相続税の適正評価が受けられるようになり、相続税が原則 的には30%くらい減免になる。これは文化財と同じよう な減免だ。これを単体でたくさんかけていくというのが一 つの方法だ。景観重要建造物は外観を変えられないが、外 観という観点から、建築物単体を指定する文化財より有利 な点がある。庭木や生け垣・工作物まで指定できるので敷 地単位を指定でき、その範囲で相続税減免が受けられる。 これを政策的にうまく使っていけるかが課題だ。
歴史まちづくり法の施行で、まちづくりへ国の支援
それからもう一つの可能性は、11 月4 日から「歴史ま ちづくり法」というのが施行された。これは国宝や史跡な ど国指定の文化財があるとき、その周辺を重点地区として 援助するというものだ。国宝・史跡やその中の整備、公 園の場合は公園整備その他の委託費用、パーク&ライド 設備、塀の復原、無電柱化、歴史的風致形成建造物・景 観重要建造物等の修理や復原・取得、こういうものを国 交省の予算で支援する。文化庁が計画の認定を行い、農 林水産省とともに計画のクオリティは確保しつつ、国土交 通省の予算で行うという共管の新しい事業だ。ただこれも、 行政がきちんと計画を作ってそれが認定される必要があ る。ここまでが今すぐやれそうなもので、それほど長期的 な制度改革を伴わなくてもできることだ。
世界で議論が始まっている市全域を含めたランドスケープ <歴史的都市景観>
次に、他の国で世界遺 産を持っているところで 何が行われているかとい うこと。今世界遺産の中 で用語として定着し、新 しく議論されているのは historic urban landscape という、歴史的都市景観、 こういうものを大事にし なくてはいけないという ことだ。世界遺産の中で かなりきちんと議論され ていて、実はあと2 年の うちに、ユネスコの勧告 として出すことに決まっている。そのために、歴史的都市 景観とは何か、それを守るために何をしなくてはいけない かということについて今議論が進んでいる。そこでまさに 鎌倉で、鎌倉の都市全域を含めたランドスケープを議論す ること。コアだけでなく、バッファゾーンまで含んで、都 市全体が歴史的価値のある都市計画によって造られ、それ が現在まで続いていて、統治された都市景観をもたらして いるようなまち、まさに鎌倉はこういうところなのだ。こ れを何とかしなくてはならない。バッファゾーンの外側ま で問題になっているのは、高層建築や奇抜なデザイン等。 鎌倉の場合、高さ規制ができる、高層ビルというのはない わけだが、バッファゾーンの外の奇抜なデザインや遠景に 高層ビルが見えることにより、歴史的景観が台無しになる。 3 次元的に見るというのが大事だということ。平面でなく 空間的に書かれているべきバッファゾーン計画だが、計画 図では平面の地図に書かれている。3 次元の景観が重要だ ということが言われるが、それはバッファゾーンの線を超 えてしまうかもしれない。それをどう位置づけるかという 問題がある。この問題は世界の様々なところで起きている。
バッファゾーンのデザインのあり方について、2007 年 の世界遺産委員会で、コントロールできないバッファゾ ーン外での開発が問題と、指摘されている。そういうと ころにマネジメントプランを、今建てつつある。生きてい る都市が抱えている状況というのはそういうことである。 2003 年の世界遺産委員会でウィーンの中央駅でモダンア ート的な開発計画があがった。これがきっかけになって、 建築家や開発事業者も入れて、こういう都市の中に近代的 な建物を建てるときに何が許されて何が許されないのかと いう議論をしようということになり、大きな議論が行われ た。日本からは三菱地所も参加した。その時の最終文書が ヴィエナ・メモランダム(VIENNA MEMORANDUM ウ ィーン・メモ )だ。HPで誰でも読むことができる。
平泉は登録延期を機に<景観のマネジメントプラン>を
最後に平泉の登録延期について一言。私も策定委員だっ たので責任がある。最初に、平泉の世界遺産登録を考えた とき、素晴らしいものをすべて集めた。それをまとめる思 想が必要になり、浄土思想でまとめようとした。 具体的には平泉の景色は、まさに浄土の景色じゃないか。 西に聖なる山、金鶏山があって、夕日が沈むとき、その手 前にある無量光院の阿弥陀如来が夕陽の中に浮かび上が る。西方浄土が見える。藤原三代で町ができる。初代清衡 のとき中尊寺ができる。二代基衡、三代秀衡のそれぞれの 時代にも、仰ぎ見ると聖なる山があって、お寺がある。中 尊寺には藤原四代のミイラがある。中尊寺の聖なる山から、 支配者が全て見ているのだ。これこそ浄土の思想を再現し た景観であると。
それまでの都市というのは四角い、中国から来た都城、 平泉はそれとは全然違う、日本で初めて自然に信仰の意味 を持たせ、それをベースとしながら都市を造っている。そ れが大変ユニークなのだ。しかし9つ候補遺産を選んだな かに合わないようなものがある。そこに問題が生じた。
それと平泉の都市のなかに、新しい道路や区画整理され た住宅地、商店街があってこういうのでいいのかというの が、歴史的都市景観の見地から課題となる。これをきちん と変えていく論理が必要である。鎌倉が景観地区でやるこ とを平泉もやるべきである。景観のマネジメントプランが 必要だと私は言っている。
また、中尊寺から柳御所にかけて軸線がある。これは平 泉の若宮大路のようなものかもしれない。これを今後のま ちづくりのなかで尊重するといった方針を明確にすべきで はないだろうか。鎌倉も、ちょっと平泉を横目で見ながら 考えていくとよい。

 

武家の古都・鎌倉塾◇第2 回講演要旨  「中世鎌倉の建物と住まい」

講師 鈴木 亘さん(鎌倉市文化財専門委員)   2008 年6 月14 日 於:鎌倉生涯学習センター

源頼朝は幕府を開いてのちの武家政権を作ったが、頼朝 の祖先である頼義・義朝等、相当の勢力を持っていた先祖 でさえ成し遂げられなかったことを、なぜ一介の流人の身 分であった頼朝がなし遂げることができたか。当時の社会 的状況と同時に頼朝以下の武将に、鎌倉に武家の政権をつ くろうという機運がみなぎっていたために鎌倉幕府が創立 したのだと思う。それが足利幕府、徳川幕府に受け継がれ ていくわけだ。歴史にあらわれる武将の話などは単独性が 強いが、武家政権樹立には、人間の考えうる普遍的な要素 があったのではないか。鎌倉のことを考えるときに、武家 の館、それから、頼朝をはじめとして創立した社寺、また 三代将軍以降の北条執権と禅宗寺院を考えなくてはならな い。足利・徳川の時代を通じて、禅宗と武家の結びつきが 非常に強い。建築を考えてみると、中世に新しく入ってき た宋・元の建築様式がいち早く鎌倉で取り入れられ、建長・ 円覚という大寺院を創立した。それがもとになって、南北 朝以降、京都にも禅の大寺ができる。武家と禅の結合とい うべきか、禅宗というのは、宋・元(中国)の代表的な一 つの文化であり、ひとつの体系を持っている。鎌倉は禅宗 として、その中国文化をそっくり取り入れ、中世を通して 武家独特の建築様式を確立していった。室町時代になると、 禅そのものがかなり和様化してくる。特に足利義政以降、 禅との結びつきが非常に強い建築をつくった。書院造とい う新しいスタイルの住宅ができた。これはまさに武家の文 化である。そういう意味で、やはり鎌倉時代の武将が最初 に取り入れた禅宗というのは、中世の鎌倉を考えるうえで 大変重要なのだ。
黎明期の建築・・・鶴岡若宮八幡と荏柄社
鎌倉入りした頼朝は、大倉幕府を開いて、その西側にま ず、頼義が石清水八幡宮を勧請した浜の鶴岡八幡、いわゆ る若宮八幡を移す。それが鶴岡若宮で、現在の鶴岡八幡宮 の発祥だ。最初の八幡宮は短期間に作ったので、翌年にな ると若宮の新しい造営を始める。本格的な建築を始めるに あたり、浅草の大工を呼び寄せて若宮を造営する。 草創期の鶴岡八幡若宮は『吾妻鏡』により、社殿の中心 である神殿・拝殿、そのまわりを囲む回廊のほか、守護所、 浜の大鳥居、若宮の鳥居、別当坊、末社熱田・三島社、流 鏑馬の馬場、それに社殿の源平池と赤橋等ができていた。 若宮は建久元年(1190) に鎌倉の火災により焼亡するが、 翌二年に復興する。このときに上・下両宮の構成がなった。 天正の「豊臣秀吉奉行等加判造営指図」でそれがうかがえ る。
現在残っている中世の建物としては、2棟がある。 ひとつは指図の一番左上の恵比寿社で、北条時頼が勧請 する。庶民信仰として恵比寿信仰があって大黒信仰と向い 合せに配置をしてある。江戸時代に実朝を祀る白旗社とな り、明治に実朝を白旗社に合祀するにあたって、現在の丸 山稲荷のところに移築した。応永五年(1398) の建築であ る。
一方の荏柄社は、平安時代の後期、正治元年(1104) の 誕生といわれている。大倉幕府を作ったときの鬼門の守護 神。実際には、記録に出ているのは建仁二年(1202)9 月、 荏柄社祭礼のとき、大江広元が奉幣使になっている。鶴岡 八幡宮とともに、歴代武将によって尊崇されて修理が加え られてきた。
配置を見よう。頼朝は武家政権を建てるときに、大倉幕 府の西側に八幡大菩薩を祭り、東側のちょっと北に、菅原 道真・天神様を祭った。雷との関係で、菅原道真というの は、人々の信仰を集めていた。非常に怖い雷神で、雨を降 らす、農業の生業の神様だった。おそらく頼朝は、建久二 年(1191) の火災のあとに、大倉幕府の鬼門の一段高いと ころに荏柄社を勧請したのではないか。現在の本殿は旧若 宮の本殿を移築した。鎌倉で最も古い、鎌倉時代末の建物 である。
政権確立期の建築・・・大倉幕府と永福寺
八幡宮の東側に頼朝は御所を造る。『吾妻鏡』では「御 亭」として出てくるので、御所として形を整えるのは頼朝 が征夷大将軍になってからだろう。敷地は東御門・西御 門・南御門・北御門の内で相当広い。東西が320m、南北 が210m という。地名も現在残っている。
敷地内( 郭内) には、頼朝の御所の周りに「小御所」「東 御所」という名前で妻政子や子供の棲む御所があり、さら に有力御家人の出仕のための休憩に使う邸宅があった。御 所の中に侍所や厩があるのも、鎌倉の特長である。もちろ ん、各御門の外側に有力御家人の館があって御所を護って いた。これは京都の御所に見られない、鎌倉独特の将軍亭 の在り方だ。残念ながら、鎌倉の大倉亭は調査がほとんど 進んでないのでわかっていないが、今後に期待される。こ れは鎌倉が武家の古都であるという大きな特長の一つだ。 文治二年(1186) から建久二年(1191) まで6 年間、京都に おいて、六条八幡宮の造営、閑院内裏の修造、院御所六条殿 の再建、大内の修造、院御所法住寺造営を行っている。これ は御家人役でやっている。このような造営を通して、おそら く京都の木工寮の大工、調度や工芸に秀でた京都の工匠をつ かんだ。そして建久二年に鶴岡八幡宮の再建、幕府の再建を し、建久三年から永福寺の造営をやっている。このときは本 格的な建築ができるというのが大前提。10 年もするといろ いろな工人が鎌倉に集まってきて、非常に賑わいがあった。
北条執権時代の建築・・・建長寺・円覚寺
建長寺は宋朝風の本格的な禅刹として鎌倉で最初に創建 された寺院。建長五年(1253) に中心伽藍ができていた。創 建する以前の土地は地獄谷として、罪人の処刑をするとこ ろだった。そこを寺院に転用する。現在の発想とは全然違う。 まず惣門を入って突き当たりにあるのが山門、山門の両 脇から二階建ての回廊が出てきて、仏殿に向かう。主軸線 上に、二階建ての建築がずっと並ぶ。仏殿の両脇に土地堂、 祖師堂という、禅独特の、土地の神様と禅宗の祖師を祭っ たお堂がある。その背後の東側の庫院と相対して、西側に 大徹堂、僧堂がある。中庭があって、ビャクシンが植わる。 周りに裳階があり、華頭窓や花灯枠がついた回廊がぐるり と南北西にまわっていて、光が回廊の両側から入ってくる。 これは禅宗独特のものだ。もともとこのアーチ型の形とい うのは、西アジアで発達し石造でつくられた。それが中国 に入ると木造におきかえられ、それが日本に入ってきた。 仏殿の後ろに、二階千仏閣という法堂がある。禅宗の寺 院ではこの法堂と僧堂が一番重要だといわれる。その西側 に栴檀林という、これは衆堂とも呼ばれていて、どういう 風に使うかというと、大徹堂で座禅を組んで、修行に励む。 食事も就寝も全部この大徹堂でやる。疲れると衆堂に行っ て、経典や図録があり読書や喫茶ができる。清拙正澄が日 本にやってきて、宋にはある衆堂とか年寄りの修行する施 設がないというので、それを建長寺に作った。当時として は非常に文化的な施設が、禅院のなかにできた。
二階千仏閣の北側に札間と玄関があって、その北側に得 月楼という方丈がある。一山一寧という高僧が中国からや ってきて建長寺の住持となったときに、この建物が建てら れて、ここを書斎にした。一山にそばに仕える侍者とい われる僧が付けられるが、試験をして選ぶ。詩文を書か す。それで二人を採用した。その二人の中の一人が夢窓疎 石だった。試験は方丈で行った。一山一寧は、その詩を方 丈の明 窓(めいき) で読んだ。従来の日本建築史だと、このような 付書院は和様であったといわれている、「寝殿造りにある 『出文机』(だしふづくえ)が禅院に影響を与えた。中世初期の書院づくり の飾りのひとつになった」とか言っているが、実はそうで はなく、この時期に中国から禅院に入ったきたものだ。和 様風の部分と、非常に宋風の部分が一体になっている。 塔頭という小さな寺院が伽藍周辺の岡にたくさんつくら れた。これは鎌倉のお寺の特長で京都には見られない。そ れが現在にも生きているし、中世の遺構もたくさん残って いる。保存状態も良い。夢窓疎石が塔頭にしていた塔頭が 現在も残っている。現在の中心伽藍と同じ塔頭が中世から 続いている。建長寺では中世にさかのぼる建物はないが、 中世の伽藍の様子が分かる資料と、近世はじめの塔頭をふ くめた全体の様子がわかるような史料、そういうものが非 常によく保存されていて、貴重な遺産である。
円覚寺は弘安五年(1282) の開堂だが、正応二年(1289) に火災にあい、永仁四年(1296) に再建供養が行われてい る。貞時の十三回忌のときに法堂が供養されて重要伽藍が 揃う。庫裡と方丈が二階建てで、鎌倉では方丈が二階建は 珍しい。円覚寺の場合は鎌倉時代に創立された塔頭が三所 ある。白雲庵が早く塔頭としてつくられた。二階建て客殿 で、まわりに濡れ縁がある。非常に独特で、それが鎌倉の 寺院の特長だ。丘陵を利用して谷戸の中に寺院をつくり、 塔頭等を高台に建てている。
円覚寺に伝わった仏殿の古図がある。永禄年間(1558 〜 1569) に火災にあって中心伽藍西側の塔頭が全部焼けた。 再建にあたったときの仏殿の計画図で、以前の鎌倉の五山 を考えるときの貴重な史料(国重要文化財)だ。再建は費 用が非常に大変だというので、近くにあった太平寺という お寺の仏殿を移築した。規模は小さいが、およそ三間、裳 階づくりの非常に洗練されたもの。年代は大体15 世紀初 めころで、古い時期の禅宗の様式がわかる。
武家政権と禅宗の結びつきが生んだ普遍性とは
このように、建長寺・円覚寺が北条氏によって創建され るが、最初にいったように、武家と禅宗の関係は、その後 の文化、政治を考えるうえで非常に重要だ。鎌倉では鎌倉 の公方が建長寺や円覚寺の高僧にいろいろなことを質問し て教えを乞う。当時の禅僧は経典だけでなく、文化そのも のである。いろいろな質問にあうが、即座に答える。日本 の歴史もよく知っている。聖徳太子のことを聞かれてもき ちんと答える。そういう意味で、武家の棟梁である将軍と 公方、それと禅僧との結びつきは非常に強い。つまり、武 家文化に与えた禅僧の影響というのは非常に強いというこ とだ。日本の文化はそういうふうに出来上がっている。そ の原因を鎌倉に初めて北条の執権が取りいれたのだが、日 本の歴史の上では、ただ1 回だけ経験する歴史である。そ れが後の武家政権に備わっている普遍的な形をつくったの である。

 

めざせ!世界遺産登録

史跡めぐりで登録推進を応援    NPO 法人 鎌倉ガイド協会

同協会は平成3 年、 鎌倉市の施策として、 鎌倉を訪れる人たち に、史跡・歴史等を 解説することにより鎌 倉の良さを理解しても らうことを目的として 「鎌倉シルバー・ボラン ティアガイド協会」の名称で発足しました。その後活発な 活動を続けていましたが、昨年12 月、新たに「特定非営 利活動法人 鎌倉ガイド協会」として発足しました。 現在では約100 名の会員が在籍していて、毎月開催の 定例3 コース、個別に依頼されるガイド、修学旅行等での ご案内を通して、年間約25,000 名の参加者の方々に鎌倉 の良さを紹介し楽しんでいただいています。
 同協会は世界遺産登録についても大きな力を注いでいま す。具体的には、協会で毎月の自主研修の場に専門家の講 師を招いて候補遺産等の勉強会を実施し、毎月の定例史跡 めぐりコースに組み入れたり、推進協議会が主催する「武 家の古都・鎌倉塾」現地講義のガイドをしたり、個別のコ ース等の案内でも紹介するようにしているとのことです。 川合会長は、「今後とも様々な活動を通じて、世界遺産 登録を応援していきます。」と話してくれました。
 

車内まるごと世界遺産ギャラリー    江ノ島電鉄株式会社

江ノ島電鉄株式会社では、2004 年より地元湘南の情報 を発信するための電車「S.K.I.P(スキップ)号」を運行し ています。 この「S.K.I.P 号」では、沿線の神社仏閣の案内やアジ サイ情報を発信したり、車内をまるごとギャラリーにして 湘南にゆかりのある10 人のアーティストの作品を展示し た「EN send 10(沿線展)」などを開催してきました。  そうした活動の一環として、鎌倉の世界遺産登録の候補 地となる鶴岡八幡宮や鎌倉大仏、建長寺などの写真を車体 に貼り付けたラッピング電車に、世界遺産登録に向けた考 え方や候補地となる社寺や遺跡について紹介した中吊り 広告を掲示した「S.K.I.P 号」が運行され、「あの中吊り広 告が欲しい」といった要望や「中吊り広告にある遺跡に はどうすれば行けるのですか?」といった質問など、様々 な反響が鎌倉市にあったそうです。
「鎌倉の神社やお寺、遺跡が世界遺産に登録されるのは 大変望ましいことです。これからも色々な側面から鎌倉の 世界遺産登録を応援していきたいと思います。」と、経営 企画部の君塚利啓さんは抱負を語ってくれました。

 

「古都鎌倉の世界遺産登録』ってなに?
第9 回 法華堂跡はどんなところ?(前篇)

 現在、源頼朝の墓塔などがある法華堂跡は、国指定史跡 としての正式名称を法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)と いいます。その名のとおり、武家政権の創始者・源頼朝と 北条義時を供養する法華堂というお堂があった場所です。 源頼朝は、奥州合戦出陣中に大倉御所の後ろの山腹に自 分の持仏である観音像を祀る御堂を建てるよう命じました。 この御堂は頼朝の死後は法華堂と呼ばれました。宝治元年 (1247)当時の法華堂内には、供物を捧げる場所や源頼朝 の肖像画などがあったようです。石段下の白旗神社付近を 含めて、鎌倉時代から明治初めの廃仏毀釈までお寺があり、 法華堂や頼朝の頃からの遺品などを管理していました。 鎌倉時代の法華堂は、政権創始者の廟所として崇められ ていました。『吾妻鏡』には、第3 代執権・北条泰時が、頼 朝の命日に、頼朝の生前同様、堂に上がらずに参詣した話や、 北条氏と三浦氏が戦った宝治合戦(1247 年)で、三浦一族 が頼朝の御前で最期を遂げようと立て籠もったことが記さ れています。
法華堂の建物は鎌倉時代以降に失われました。頼朝の墓 塔は、1616 年に林道春が漢詩を詠んでいることから、こ のころまでに建てられていたようです。源頼朝の墓周辺は、 頼朝の末裔と称していた薩摩(鹿児島)の大名・島津氏に よって1779 年に整備されました。このように法華堂跡の 源頼朝墓は、江戸時代まで武家政権の創始者の廟所として 大切に守られてきた場所だったのです。

 

News! the 世界遺産

京急バス「りんどう号」が世界遺産登録のメッセンジャーに

 京浜急行バスが運行するレトロ調の バス「りんどう号」が、「鎌倉は世界 遺産登録をめざしています」というメ ッセージと「武家の古都・鎌倉」のシ ンボルマークを車体に描き、2年ぶり に復活しました。
 車名は鎌倉市の花である「りんどう」 から付けられたもの。運行初日となる 昨年10 月27 日には、JR 鎌倉駅東口 にて出発式が開催されました。
鎌倉駅東口から大仏前までの路線で、平日は午前 8時頃から午後5時頃まで13 便、土日祝日は9便 運行され、車内のモニターテレビでは世界遺産候補 地をはじめ鎌倉の名所や四季の風景が放映されます。  皆さんもりんどう号に乗って、鎌倉の映像を楽し みながら、世界遺産の候補地を訪ねてみませんか。

在米日本大使館で、鎌倉の世界遺産登録をアピール!

世界遺産を目指す鎌倉を世界に知ってもら おうと、鎌倉在住のアート・ビーズ・クリエ ーター金谷美帆さんの作品展が昨年9 月10 日 から11 月20 日までワシントンの在米日本大 使館広報文化センターで開催されました。
会場で関連の映画上映会や講演会も開かれ た日は、米各地のビーズ作家、スミソニアン 美術館学芸員やギャラリーオーナー、大学教 授ら日本の現代アートやビーズに興味を持つ 人を中心に、100 人を超す観客が訪れました。
金谷さんはワシントンから「日本人の手先の器用 さにアメリカ人が驚いていました。日本では源平池 をモチーフにした和衣裳『夏日』はあまり目立たな いのですが、こちらではこれが一番人気。蓮と鯉の 図柄と色の組み合わせの具合だと思います」とのコ メントを「武家の古都・鎌倉ニュース」編集部に寄 せてくれました。
金谷さんは講演で、展示作品についての詳しい説 明とともに、鎌倉の紹介と鎌倉が世界遺産登録をめ ざす意義についてもお話ししたとのこと。丹念に制 作したビーズアートが、鎌倉世界遺産登録推進のた めに、海外で役立ったことがとてもうれしいと語っ ていました。

鎌倉世界遺産登録推進協議会ホームページ只今更新中!

http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/

古都鎌倉の世界遺産登録についての最新情報や、会報バックナンバー、世界遺産MAPなど、
楽しい情報を満載しています。ぜひ、クリックしてみてくださいネ!

 

Event! the 世界遺産

〜 世界遺産登録に向けた現状と鎌倉の課題〜

ユネスコ世界遺産委員会における審査が厳格化する中、鎌倉の世界遺産登録に向けた取組みを確実 なものとすることを目的として、国内外の専門家による国際フォーラムを開催し、世界的な視点か ら見た鎌倉の歴史的遺産の価値などについての考え方や意見をお話していただきます。
とき/平成21 年2 月1 日(日)10 時〜 15 時    ところ/湘南国際村センター 国際会議場
主催/文化庁、 神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会     定員/ 200 名  
募集期間/平成21 年1 月5 日(月)〜 21 日(水)必着(応募者多数の場合は先着順)  参加料/無料
申込方法/はがき、ファックス、Eメールなどで、(1)催事名『「武家の古都・鎌倉」国際フォーラム係』   
(2)氏名(ふりがな) (3)住所 (4)連絡先(電話番号、ファックス番号、Eメールアドレス)を記載のうえお申  し込みください。複数名の場合は同行者の氏名もお願いします。 締切/平成20 年1月21 日(水)必着
申込先・問合せ先/〒248-8686 鎌倉市御成町18 - 10 鎌倉世界遺産登録推進担当 電話0467‐61‐3848
 ※申し込みをされた方には、結果をはがきでお知らせします。
 ※当日は、逗子駅から会場までの送迎バスをご用意します。

Watch! the 世界遺産

今年も市民文 化祭の鎌倉市 展(美術展)の 中に世界遺産部門が設 けられ、世界遺産登録の 候補地となる24 件の社 寺や遺跡をテーマにした 絵画21 点、写真31 点の 計52 点もの作品が寄せら れました。応募作品は平成20 年9月26 日から10 月 6日まで鎌倉芸術館のギャラリーで展示され、絵画で は極楽寺や朝夷奈切通をモチーフにした2点が、写真 では鶴岡八幡宮や鎌倉大仏、和賀江嶋をモチーフにし た3点が、それぞれ受賞しまし た。来年も鎌倉市展(美術展)に 世界遺産部門が設けられる予定で す。今年以上にたくさんの作品が 寄せられるといいですね。

今年も県内の中学生を対 象に、神奈川県教育委員会 と鎌倉市による文化財保護 の啓発のためのポスター展が開催され ました。「世界遺産登録をめざす 武家 の古都・鎌倉」部門では松崎玄徳(はるのり)さん(横浜市立金沢中学2年)が最優秀 賞に輝き、「今回題材にした鶴岡八幡 宮は見たままに描くように努め、流鏑 馬は写真を参考にし、これに鳩を組み 合わせてみました」と喜びを語ってく れました。受賞作品は平塚市中央公民館など県内の公共施設6箇所 で順次展示されました。最優秀賞の松崎さんの作品はポスターとな り、来年の11 月頃まで県内の公共施設や社寺などに掲示されます。  文化財保護ポスター展は来年も開催される予定です。中学生の皆 さんの自由な発想で、たくさんのご応募が期待されています。
☆こちらのポスターをお店等に掲示して下さる場合は無料でお届け します。推進協議会事務局までご連絡ください。

編集後記  

「世界遺産登録に向けて ガンバレ鎌倉シンポジウム」 の稲葉信子さんの講演と工藤父母道さん等を迎えたパネ ルディスカッションは、世界遺産登録の現状と鎌倉が直 面している課題について色々な示唆を与えられました。 「守りたい 鎌倉のまちなみツアー」に続いて行われた 「世界遺産と鎌倉の遺産相続問題」では公益法人として鎌 倉風致保存会のような土地の管理や活用に係わる組織の 重要性と、西村幸夫さんの説かれた「歴史まちづくり法」 の活用など、相続税に苦しんでいる鎌倉の現状に少し明 るい未来が開けました。なお、世界遺産ワークショップ 第2 回の内容は次号で紹介します。
かまくら塾で鈴木亘さんは鎌倉時代の建築物の様子を 豊富な資料を駆使して解説してくださいました。 待望久しい鎌倉の世界遺産登録へ向けて、第1 回国際 シンポジウムが開かれることになりました。いよいよ鎌 倉の世界遺産登録も正念場を迎えます。私たちも登録推 進事業に全力で取り組みたいと思いますので、ご協力を お願いします。 <広報部会長 内海恒雄>

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