鎌倉世界遺産登録推進協議会
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武家の古都・鎌倉ニュース第11号

 

鎌倉の「顕著な普遍的価値」を考える
「武家の古都・鎌倉」国際シンポジウム開催

「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録に向けた考 え方などについて、文化遺産や歴史の専門家を海外 から招き検討する国際シンポジウムが、文化庁と神 奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進 委員会との共催で、平成21 年1月29日から2月1日ま で葉山町の湘南国際村センターで開催されました。
 この国際シンポジウムの目的は、武家文化の成立 と発展の地としての価値を中心に現在検討が進めら れている鎌倉の登録に向けた考え方が、世界遺産の 基準からどのように評価され、適合するのかなどに ついて、世界遺産登録の近年の動向に詳しい海外の 専門家の意見を伺いながら協議・検討を行うことに より、今後まとめられる推薦書の原案の熟度を高め、 より確実な登録をめざすことにあります。
 英国のクリストファー・ヤングさん(イングリッ シュ・ヘリテージ/考古学)、マルタのレイ・ボンディ ンさん(イコモス歴史都市委員会/歴史遺産保護)、 中国のル・ズーさん(清華大学/歴史建築)が参加 され、日本からは清水真澄さん(成城大学学長)、 五味文彦さん(放送大学教授、東京大学名誉教授)、 西村幸夫さん(東京大学先端科学技術研究センター 教授)をはじめとする鎌倉の推薦書原案作成委員会 の方々や、稲葉信子さん(筑波大学大学院世界文化 遺産学専攻教授)が参加されました。
 1月29日、30日には鶴岡八幡宮や建長寺、鎌倉大 仏や名越切通など候補資産の視察が行われました。 その上で、31 日には国内外の専門家による意見交換 会が行われ、登録に向けて鎌倉がこれから取り組む べき課題などについて多くの意見が交わされました。 31日は、米国のジョセフ・キングさん(文化財保護 修復センター/文化遺産保護)が折よく来日されて いたことから、意見交換会のみ参加されました。  2月1日には、こうした取り組みの成果を市民と共 有することを目的に、国際フォーラムが開催されま した。基調講演では世界遺産登録の近年の動向や鎌 倉の世界遺産登録に向けた考え方などが報告され、 パネルディスカッションでは登録に向けて強調すべ き点などについての意見が出されました。

1月29日夜、 歓迎レセプションが 行われました
1月2 9日(木)午後7時から、 湘南国際村にて国際シンポジ ウムの歓迎レセプションが行 われました。三人の外国から の主賓の他、苅谷勇雅文化庁・ 文化財鑑査官、松沢成文神奈 川県知事、石渡徳一鎌倉市長、 中田宏横浜市長、平井竜一逗 子市長、四県市の教育長他、 関係者約9 0名が出席しました。
 会場には、ワシントンDC でも話題を集めたアートビー ズ作家、金谷美帆さんの作品 「鎌倉世界遺産登録絵図」屏風 が国内で初めて展示されまし た。また、前日に伝統鎌倉彫 事業協同組合から市に寄贈さ れた「流鏑馬神事」の巨大な レリーフも飾られました。
 各首長は固い意志を述べ、 三人の主賓からも極めて好意 的な挨拶がなされました。レ セプションの最後に、推進協 議会から三人の主賓に「散華」 を寄贈しました。これは推進 協議会事業部会の香山隆さん の発案と尽力により、鎌倉在 住の日本画家、平松礼二さん に原画をお願いして作られた ものです。作品は、武家の文 化に想いを馳せて、琳派風に 描かれた、「さくら」「名月」「紅 白梅」の三点で、扇面の台紙 にならべ額装し贈呈しました。
 シンポジウムの初日を飾る 素晴らしい式典でした。
 

国際フォーラム基調講演 要旨
「武家の古都・鎌倉」の文化財の普遍的な価値について

放送大学教授/東京大学名誉教授 五味文彦さん

今日、ここでお話しするのは、鎌倉の文化財の普 遍的な価値についてだが、それを武家政権、あるい は武家文化というものの成長過程を通じて見ていき たいと考えている。その成長過程を通じて、その構 成資産との関わり合いを中心にしながら、鎌倉がど のように成長して、それが現在にどのような影響を 与え、あるいは、世界的に意味を持っ ているのかについて話したいと思う。
◎武家政権と武家文化の形成について
 日本社会に大きな影響を与えた武士は、9 〜10 世 紀頃から、各地で武者、あるいは兵(つわもの)と称され、自己 武装した兵士・戦士として、その身分が形成され始め、 兵の習いとか、武者の道などと称される主従関係に 基づいた、独自の倫理を身につけた。この武士が、 朝廷の軍事・警察部門を担う武家として成長するよ うになったのは、12 世紀の頃からだ。12 世紀後半に なると、二つの内乱を経て、平氏が武家政権を形成 した。京都の平氏による武家政権に対抗しつつ、鎌 倉を根拠地にして、新たな武家政権を築いたのが源 氏の長者である源頼朝だった。頼朝は、東日本に割 拠する武士たちをまとめて、118 0 年に鎌倉に入り、 平氏の武家政権を倒し、さらに、奥州・平泉の藤原 氏をも滅ぼして、鎌倉に武家政権の基礎を築いた。
 鎌倉に入った頼朝が、まずその中心に据えたのが 鶴岡八幡宮である。源氏の祖先と一門とを、神や仏 の信仰の両面から祀って護持する宗廟としての役割 を担うのみならず、平氏の厳島神社への信仰に倣い つつ、それに代わるものとして、八幡信仰にこれを 担わせた。八幡神は、武の神だけであるだけでなく、 飢饉や疫病を救済する神・若宮としての性格を持っ て崇められていた。ここに鎌倉は、単に武士の都、 武士の政権の根拠地というだけではなく、民衆まで 集めた、都市への方向性を目指すことになった。
◎現在の日本文化の源流となる武家文化が整う
 鶴岡八幡宮最大の祭礼である放生会に加え、相撲・ 流鏑馬・競馬(くらべうま)などの武芸が奉納されたことにより、 武芸の様式が整えられ、やがてこれが、後の日本の 武道である相撲・剣道・柔道などの源流になっていく。 初詣を始めとして、鶴岡八幡宮で行なわれた神事や 仏事など、幕府の御所を場とする年中行事と共に武 家の年中行事を形成し、それはやがて、武士から民 衆へと広がって、以後の日本人の年中行事に大きな 影響を与えることになった。
 海辺から鶴岡八幡宮への参詣道である若宮大路が 整備され、鶴岡八幡宮は鎌倉の中心としてのみならず、 東国の中心としても位置するようになった。鎌倉の 港である由比ガ浜から、海の路、海路が東国地域を 結び、鶴岡八幡宮からは陸路が鎌倉路として東国の 各地を結んでいった。
 鶴岡八幡宮の東隣には、幕府御所が構えられ、御 所の東には荏柄天神が御所の鎮守とされ、御所の南 には頼朝の父・義朝の冥福を祈る勝長寿院が建てられ、 そして御所の東北には、武家を護持する御願寺とし て永福寺が建てられた。このように、御所の周囲は 宗教空間の様相を示すに至ったものであり、鎌倉は 極めて宗教色の強い政権の地として出発した。
 頼朝によって、その基礎が築かれた武家政権と武 家文化は、鶴岡八幡宮を精神的な核として鎌倉を場 として成長していき、源平の争乱と奥州合戦の二つ の戦乱を通じて、名誉と質実剛健を重んじ、家の結 びつきを大事にして、将軍に忠誠を誓うという独特 な精神と倫理を育んでいった。緊急時には、武士た ちが鎌倉に駆けつける態勢が生まれ、鎌倉は東国の 政治的・文化的中心となった。武家文化の基礎が、 この頼朝の時代に築かれたということになる。
◎京の文化を取り入れ、開かれた都市へ
 頼朝の死後、13 世紀に入ると、頼朝の墓である法華 堂が設けられ、また、頼朝の父・義朝が根拠地として いた亀ヶ谷に寿福寺が建てられ、そこには中国に渡っ て禅宗を日本にもたらした栄西が住持に迎えられた。
 三代将軍・源実朝は、後鳥羽上皇が主導する朝廷 の政治と文化に憧れ、和歌や蹴鞠の文化を鎌倉に持 ち込んで、永福寺や勝長寿院、幕府御所などで会を 持ち、学問についても、御所に学問所を置いて番を 組んで知識ある武士を勤めさせて学んだ。
 承久の乱後、幕府の政治支配は、この段階で全国 に及ぶこととなるが、幕府は、武家政権としての自 信と共に自覚を抱くようになり、京の政治と文化を より積極的に摂取して、自分のものにしていった。
 それを推進した北条泰時は、幕府の執権の任に就 くと、幕府御所を鶴岡八幡宮の前に移して、御成敗 式目(貞永式目)など、後世に引き継がれる武家政 治の方針を定めた。その際に政治を合議で決める評 定衆たちは、仏教を守護する神、鶴岡八幡宮の八幡神、 荏柄天神社の天満天神などに対して、政治や裁判を その御成敗式目に基づいて公平に行なうことを誓っ ている。鎌倉幕府は、このように神仏への信仰に基 づくことで、京の律令とは異なる基本法を定めるこ とが可能になった。
 泰時は、京都から導入した保(ほう)や篝屋(かがりや)制度などで鎌 倉の治安維持を図ると共に、三方を山に囲まれた鎌 倉の内と外を結ぶ切通については、巨福呂坂や朝夷 奈の路を新たに開拓し、海辺の和賀江には、勧進上 人に合力して突堤、和賀江嶋を築いた。鎌倉は、自 然の要害の地という性格から、外に開かれた都市へ と成長していった。
 こうした泰時の時代に、鶴岡八幡宮と並んで重要 なのが、鎌倉の西側に泰時が勧進上人を援助して造 営した大仏である。大仏造営の費用は、勧進上人が 民衆から集めて造営した。この上人が浄土宗の僧で あったことからも知られるように、この時期、京都 で信仰を広げていた浄土宗の僧が続々と鎌倉に入っ て来た。武家政権は、積極的に京の政治と文化を取 り入れることにより、鎌倉幕府の骨格を整え、武家 文化を豊かなものにしていった。その動きを象徴す るのが、大仏と建長寺であり、その二つは武家政権 と鎌倉を象徴するモニュメントとなった。
◎新たに宋文化を取り入れて、国際的都市へ
 しかし大仏は、それまで木造であったものが、次 の時頼の時代になると金銅製の仏像に変えられた。 その鋳造には、大陸から輸入した銅銭や技術が使わ れた。このように新たな権力の樹立に当たって積極 的に導入されたのが大陸・中国の文化である。それ を最もよく物語るのが、禅院、禅宗の寺として建立 された建長興国禅寺だ。
 その意気込みは、開山として宋朝の僧・蘭渓道隆 が充てられたことにも表れており、ここに本格的な 大陸の規式に基づく禅宗寺院が生まれたわけだ。禅 宗は幕府の厚い保護を得て、鎌倉に定着していった。
 時頼の死後に若くして政治指導者となった時宗は、 二度にわたるモンゴル襲来を、広く御家人を動員し て退けた。時宗は、高名な禅僧の無学祖元を宋から 招き、建長寺に次ぐ禅宗寺院として円覚寺を建立し その開山としたが、これには二度の合戦で亡くなっ た人々の霊を、敵味方なく慰めるという意図があった。
 中国からは仏典や漢籍が入って来た。それらの仏 典や漢籍、さらに日本の古典文化などの学習も進み、 和書、仏典、漢籍などを収集し、それらを納める称 名寺にある金沢文庫のような図書館も生まれた。
 鎌倉に入って来た仏教信仰は、禅宗だけではない。 武家の保護を求めて、戒律の護持を求めた律宗、あ るいは法華経に基づく政治改革を求める法華宗(日 蓮宗)、そして、踊り念仏と、念仏札の配布によっ て念仏を勧める念仏宗である時宗(じしゅう)が、それぞれに鎌 倉を目指して来た。幕府は戒律の重要性を認識して 律宗を受け入れたので、極楽寺や称名寺、浄光明寺、 覚園寺、こうした新たな律宗寺院が発展していった。
◎鎌倉独自の武家文化が日本各地へ広がる
 このように、時頼・時宗の時期を通じて幕府体制 の整備が図られ、宋風文化を取り入れることによっ て、幕府と武家文化は独自性を強め、それが武士や 僧を通じて、今度は鎌倉から日本の各地の社会へと 広がっていった。
 時宗の死後、北条貞時が執権のとき、幕府の歴史書 『吾妻鏡』の編さんが、北条氏一門の金沢氏の周辺 で、奉行人を動員して行なわれた。この時期にも、鎌倉 には多くの禅僧がやって来たが、中でも一山一寧は、 武士への禅宗の普及に力を注ぎ、その門下から多く の禅僧が育っていった。北条貞時は禅を学んでよく理 解し、五山の制度を設けて禅宗寺院を手厚く保護した。
 鎌倉は三方を山で囲まれ、狭い土地だから、山や 谷の開発が進められ、谷奥に寺院が建てられ、禅宗 寺院には庭が造られるようになり、瑞泉寺のような 禅の境致に関わる庭園も造られた。お墓も、「やぐら」 と称される横穴のお墓が広く掘られた。もともと鎌 倉の近くにはこうした岩窟があり、修養の場とされ ていた所に、禅僧が中国の横穴墓を持ち込んだこと に相まって、「やぐら」の風習が広がった。
 鎌倉に生まれた武家政権と武家文化は、幕府の滅 亡前から、京都や各地に大きな影響を与えた。まず、 鎌倉の禅宗寺院における文化は、京都の五山の成立 とその文化を生み出し、両者が影響し合いながら成 長した。それは、五山の宗教と文芸において多方面 に展開してきたが、さらに、その庭園や建築にも影 響を与えた。
◎鎌倉の価値を世界にどう伝えるか
 以上、鎌倉の武家政権と文化を物語るような文化 財が鎌倉には良好に保存されており、その文化を含 んだ景観もまた、鎌倉には良く残されている。鎌倉 幕府の滅亡後も、後の武家政権により、武家の古都、 聖地として厚く保護されてきたことも大きな理由だ。 さらに近代になってからは、その歴史的な風土が好 まれて、積極的な景観の保存が行なわれてきた。
 このような形で、鎌倉の学術的な研究は進んでい るが、やはり世界的に、この鎌倉の価値を分かりや すくどのように伝えていくか。これが非常に大きい ことで、強く求められている。単に歴史都市という ことではなかなか難しいということはご指摘があっ たし、これからクリアすべき課題が多いということ は、ヤング先生もおっしゃった。しかし、そういう ことを一つ一つ突破できるだけの力を、鎌倉は備え ているということを強調しておきたい。

 

国際フォーラム パネル・ディスカッション
〜世界遺産登録に向けた現状と鎌倉の課題〜

「武家の古都・鎌倉」国際フォーラムが2 月1 日、 湘南国際村センターで行われました。午前の部では 英国のクリストファー・ヤングさん、中国のル・ズー さん、日本の五味文彦さんの基調講演が行われまし た。午後の部ではパネル・ディスカッションが行われ、 パネリストに基調講演の講師3 人と稲葉信子さん、 コーディネーターに西村幸夫さんが加わって、2 時 間にわたり活発な議論を展開しました。パネル・ディ スカッションの要旨をご紹介します。
○鎌倉の印象
西村 鎌倉に来られたのは初めてというお二人に、 鎌倉の印象、調査の印象をお聞きしたい。
ヤング 指定候補地の半分ぐらいを見て回りました。 ほとんどの寺院が谷に集中していて、町の真ん中でも 緑が豊かで、寺院周辺では静けさが保たれているとい うことに強い印象を持ちました。
西村 ご指摘のあった緑は古都保存法の出発点でも あり、法律によって守られてきた緑であります。
ル・ズー 現地を実際に訪れ、何百年か前の文化に 触れたような感じです。非常にユニークで独特な土 地だと思いました。世界遺産登録の道のりはまだま だ長い。でも登録に向けた作業に加わることができ て大変嬉しい。
○武家文化について
西村 世界遺産のストーリーになっている武家文化 とそれが都市に示されているということが鎌倉の二 本柱です。
ヤング サムライ文化の説明が必要です。武家が禅 宗を信じていたとは私も知らなかった。兵士とは獰 猛で野蛮人だと攻撃されてきただけに、教養の部分 を強調すべきです。
 16 〜 17世紀のマルタ騎士団、ポーランドのマル ボルグ城などを拠点としたバルト諸国の中世騎士団 との比較もできるでしょう。
ル・ズー 武家文化とその中身をヨーロッパやアフ リカにきちんと示すことができるかどうかが課題。 学術的な研究をベースに推薦書の中で資産をどのよ うに評価するか、解釈するかということです。
五味 歴史的都市としてストレートに正面からやっ ていけるかどうかは難しいのではないかと議論にな りました。外との比較を行いながら鎌倉を考えてい きたい。
西村 都市というと権力者が成長し、庶民が住んで いたところがどうなっていたのかなどがあって、ひ とつの都市ができる。鎌倉でも武家文化とつなげた ような表現で、プレゼンテーションする必要がある のではないでしょうか。
稲葉 サムライが世界遺産として説得力を持てるか どうか議論になりました。世界に向かって、サムラ イ文化の役割を簡単かつ的確に説明できることが大 事だという話も出ました。
五味 サムライは多義的で、鎌倉時代には武士の作っ た集団が武家を形成します。幕府という政権の仕組 みを成します。サムライ=武士というのは江戸時代 以降になってからのことです。
○三方の山をどうとらえるか
西村 鎌倉では20 を越える構成資産をバッファゾー ンでつないでいますが、かなり分散していることが 議論になりました。
ヤング まず最初に「顕著な普遍的価値」(OUV) が何かということをはっきりさせることです。武家 文化は基盤が広い。禅宗、他の宗教、さらに非宗教 的建造物も見なければなりません。そのなかで、た くさんの寺院が武家館跡に建てられていたことは他 にない特徴です。武力の象徴を危険でないものに変 えようとしていることに学ばされました。
 世界遺産委員会は管理が難しいこともあって、分 散された資産を嫌がります。三方山、一方海という 地形が重要だということに気付きました。推薦書を 書くときに山稜の重要性を示すべきです。(推進協議 会作成の)地図では山を打ち出し、谷があり、寺院 があります。この地図からよい印象を受けます。
ル・ズー 山を資産の一部として守るということに なれば、文化的景観というような形で、資産の中に 含める方法もあります。
西村 山を資産の一部に含めるとしても文化財保護 法でどこまで守れるのかが難しい問題です。
五味 山の重要さは最初から気がついていました。 江戸時代・近代にかけて山がどのように使われてき たのか変遷を追う必要があると思います。
○比較研究
稲葉 武家社会が700 年の歴史を持って、十分に 世界的価値を持つことは確かです。でも武家の価値 の説明を受けるといつも無形の価値です。禅だった り、流鏑馬だったり、武道のようなものです。
西村 武家文化や武士道には形がない。歴史的な意 義をもった都市との比較でユニークさを証明してい かねばならない。比較研究でどんなことを考えたら いいのでしょうか。
ヤング ヨーロッパの中世騎士団以外にもアフリカ のズールー族、エジプトのマムルークなどの戦士の 文化と比べることもできます。禅宗なら鎌倉の寺院 にどんな影響を持っていたのかとか、その後に鎌倉 ほどの影響を与えたところがあったのかなども考え られます。無形の価値をどうやって物理的な場所を 使って説明できるかが重要になります。
ル・ズー もっとも初期の禅の寺の中でどの建物が 当時の特別な形式を持っているのかを考える必要が あります。有名な僧がそこに住んでいたとか、OUV を判断するのに重要になってきます。
五味 鎌倉が登録されることによって世界遺産その ものにもイコモスにも寄与できるような情報を提示 できることが大事なのだと思います。市長にも頑 張っていただいて、お金を学術的なものに出してい ただけたら職員もやる気になるだろうと思います。
○保存管理計画
西村 住んでいるわれわれとして今、何をしたらいい のでしょうか。ある意味では都市の問題でもあります。
稲葉 景観や重要な建物を保存するための総合的 保存管理計画が話題になりました。保存計画の中 でもツーリズムとか、現地を訪れる人々に説明す る方法とか、いろいろな市民参加があると思います。 世界遺産としての価値が定まった上で、その価値 に影響を及ぼすルールを一個一個考えていくのが 保存管理計画だし、バッファゾーンのためのルー ル作りということではないのでしょうか。
五味 鎌倉はいろいろなところとの交流を経ながら 成長してきました。鎌倉らしさがどういうものなの か。市民と市役所が一緒に計画作りをして、その中 で新しいものの取捨選択をすることが重要だと思い ます。
○観光対策
西村 たくさんの人が住んでいるところで注意すべ きことは何でしょうか。
ヤング 観光客が年間で18 00 万という数字は鎌倉の ような小さな所では、大変なことです。宗教的な建 築物が多いので、観光客や信者が大勢訪れます。何 とかして負担を分散しなくてはなりません。
五味 よりよい住環境を作るという方向で積極的に 世界遺産登録の意義を考えてほしいですね。環境づ くり、都市づくりがどうあるべきかを考えるべきだろ うと思います。
ヤング 英国のほとんどの世界遺産は観光客を呼び 込むためにP Rしていません。退職して静かに生活 したいという市民にとっては観光客の増加は懸念 材料です。世界遺産のステータスを高めるためには、 町並みや舗装を良くするなど住みやすい都市にす ることが必要です。
○文化交流史
西村 鎌倉と東アジアの交流はどうですか。
五味 鎌倉は大陸の文化を取り入れてきました。一 段と大きな動きになったのは13 世紀後半で、東アジ アとの交易によって建長寺、大仏再建の費用が生ま れました。やがて室町幕府になると、明の秩序、冊 封体制に入る。その意味では、東アジアの流れと日 本の流れは、同じ流れで変化していました。
○今後の課題
西村 まず何をやらなくてはならないのでしょうか。
稲葉 市民の立場では、保存管理計画作成に当たっ て、まちづくりで一つ一つ互いに理解した上で小さ な利害関係をどのように乗り越えていくか。市民の 役割は、共通の素地を作って行くことだと思います。
五味 世界遺産を市民の立場で考えることが一番大 切なのではないのでしょうか。地域の歴史を外から 価値づけされるのではなく、自分たちの手で取り上 げ、鎌倉はどんな意味があるところなのかを歴史の 大きな流れの中で考えていただきたい。
ル・ズー 世界遺産委員会にこれが価値だというよ うに書いていくのではなく、ここに生活し、働いて いる市民が非常に重要な資産であると理解を持つこ とが重要だと思います。世界遺産として登録されれ ば世界の資産ですが、管理・保存という作業は地方 自治体・コミュニティー・市民の責任となります。
ヤング 最終的にも一義的にも皆さんの資産なので いつも足を地につけて見守ってほしい。地元のサ ポートがなければ何もかもなくなってしまいます。
西村 鎌倉がサムライ文化の発祥地だということが、 うまくストーリーとして作れれば、説得力を持つの ではないでしょうか。卓越した素晴らしい緑が都市 の配置の中に組み込まれていて、平場や切岸のよう に人工の手が加わって、要害になっていることを分 かりやすくプレゼンテーションしてほしいですね。 海外の人にも簡単に分かってもらえるようなうまい ストーリー作りと、それに合わせた遺産の選択、見 せ方がものすごく大事になってきたと思います。

 

『武家の古都  鎌倉塾』  第 3回講演要旨
「中世鎌倉の信仰と仏像」

講師:神奈川県立金沢文庫 瀬谷貴之さん
とき:平成20年6月21日  ところ:鎌倉商工会議所301会議室

平成18 年に金沢文庫で、「霊験仏−鎌倉人の信仰 世界−」という展覧会を開催した。このとき鎌倉の 仏教文化を改めて考え直していかなくてはならない と気付いた。「霊験仏」は、日本の彫刻史にとって 重要なテーマであるとともに、鎌倉の仏教文化に とっても重要なものであり、キーワードになる。
◎鎌倉における初期の霊験仏信仰
 霊験仏信仰と鎌倉を考える上で重要なものとして、 13 世紀中頃に作られた鎌倉の外港、六浦庄太寧寺の 本尊薬師如来立像と旧蔵十二神将像(現奈良国立博 物館所蔵)がある。
 薬師如来立像は大変特徴的な体と顔をした仏像で、 渦を巻いている特徴的な頭は京都・嵐山の清凉寺(釈 迦堂)の釈迦如来像の型である。この釈迦如来像は 平安中期に東大寺の「然(ちょうねん)という僧が、中国にあった 原像を真似て作らせて日本に請来した珍しい釈迦如 来像で、内臓などもあり、「三国伝来の釈迦如来像」 として有名である。渦巻状の頭と袈裟を肩までかけ た特徴的な姿で、日本では「清凉寺式」という。
 一方、体の特徴は善光寺の阿弥陀如来像を真似て 袈裟で両肩をおり、これを「通肩」(つうけん)という。衣文を 省略して金銅仏風の硬い表現にしているところも、 善光寺の阿弥陀如来の体の形式をとっている。
 善光寺は源頼朝が肩入れしており、鎌倉時代大変 信仰を集めた。そこで鎌倉に新善光寺が建てられた。 新清凉寺もあり、三国伝来の清凉寺式の釈迦如来像 があった。また、鎌倉の長谷寺は中世の資料では、 新長谷寺と呼ばれていた。つまり、鎌倉時代初期の 鎌倉には新清凉寺、新善光寺、新長谷寺、新清水寺 もあった。新清水寺にあった鉄仏の仏頭は、明治維 新以降、東京の大観音寺に安置されている。
 太寧寺の仏像は木彫像で等身大、頭は清凉寺式の 釈迦、体は善光寺式の阿弥陀、前に手を上げるのは 薬師如来の特徴だから、最初から薬師如来として作 られている。1回拝めば、釈迦如来・阿弥陀如来・ 薬師如来の3尊を拝んだことになり、また、過去・ 現在・未来の三世仏を一度で拝むという巧妙な考え のもとに作られている。
 初期の鎌倉の寺院造営を考える上で見落としがち だが、霊験仏信仰を移入して寺院を展開したと考え られ、複合的な太寧寺の薬師如来像は鎌倉の霊験仏 信仰の最初のピークと言える。
◎鎌倉独自の霊験仏信仰、キーワードは「運慶」
 太寧寺の薬師如来像には十二神将が付属している。 今は奈良国立博物館が所蔵している。このうち戌神像 は衣を左手でつかみ、頭は巻き毛の特徴的な姿である。 旧太寧寺像は12 体揃っていて、十二神将像のひとつ の型として関東地方には類例がいくつか見受けられる。
 この十二神将像には原像がある。覚園寺の十二神将 像は、北条義時が建てた大倉薬師堂に元々あったもの を真似て室町時代に作られたものだが、大倉薬師堂に あった十二神将像は鎌倉初期に運慶により作られたも のであった。この運慶作の像は焼けてしまったが、霊 験があると有名だった。
 十二所の光触寺の頬焼阿弥陀縁起の成立や、大倉薬 師堂の十二神将の伝説は、運慶の造る仏像に、生身仏 信仰が付随しているのを表している。
 東国で運慶作の現存作品として有名なのは、伊豆韮 山の願成就院の阿弥陀如来坐像と脇侍であり、そして 浄楽寺の阿弥陀三尊と不動・毘沙門天像である。さら に佐原義連の発願による横須賀の満願寺の地蔵菩薩立 像と観音菩薩立像も、運慶工房の作品として考えても よい。
 もうひとつ重要なのが、称名寺光明院から発見され、 金沢文庫でお預かりしている大威徳明王の坐像。1216 年(建保4)、運慶最晩年の作品である。鎌倉幕府の中 枢でつくられた唯一の運慶作品だ。
 また、現存しないものの記録に残るものには、覚園 寺の前身の大倉薬師堂本尊の薬師如来像と、勝長寿院 の五仏堂に安置した五大明王があり、後者は北条政子 の依頼により作られた。
 運慶と鎌倉幕府の関係を見ると、前半は御家人層の 需用に応え、12世紀に入ると幕府の中枢の限られた人 のために造ったようである。東大寺の完成によって運 慶の地位が上がったのだろう。運慶自身が造った仏像 が霊験仏として信仰され、運慶と生身仏信仰が結びつ いて、鎌倉独自の霊験仏信仰が展開する。
なお、今後鎌倉の霊験仏信仰としては、地蔵信仰につ いて注目している。

 

『武家の古都  鎌倉塾』  第4回講演要旨
「歌枕の地・鎌倉を目指す頼朝」

講師:鶴見大学教授 伊藤正義さん
とき:平成20年7月5日  ところ:鎌倉生涯学習センター第5集会室

◎京都に知られた名所『歌枕』の地・鎌倉
 源頼朝は、なぜ鎌倉に幕府を開いたのだろうか。確 かに鎌倉は住む場所としては理想的だ。隠国(こもりこく) 型と呼ば れる、三方を山で囲まれた地形をしているし、四神相 応の地でもあるということを、1 週間前に、「鎌倉を護 る龍神」という講演で述べたところだ。鎌倉は、頼朝 入府以来、グレードアップした理想郷のまちに変わっ た。では頼朝が入る前の鎌倉はどのようなまちだった のだろうか。
 源頼朝は118 0 年( 治承4 )1 0月6 日に鎌倉に入る。 その頃、日本で一番有名な場所は、京都、博多、宗 教の聖地は熊野、そして、相模國で有名なのは鎌倉 だったということを証明したいと思う。
 『歌枕 歌ことば辞典』(片桐洋一著、笠間書院、 1999 年)に、平安時代に歌われて、京都の人に知られ た「名所歌枕一覧」がある。上総・安房に歌枕の地 はない。相模には足柄・鎌倉山・小余綾磯(こゆるぎのいそ)・箱根山 と4つも歌枕の地がある。小余綾磯は大礒の浜で、 国府があった。足柄・箱根はまさしく魔物の棲む土 地だ。鎌倉はなじみ深い地だとわかる。
◎『頼朝の三つの奇跡』を三つの史料で読み解く
 11 8 0 年9 月と言えば、頼朝が完全に制圧していた のは上総と安房國だけで、相模國には平家方の大庭 氏がいた。上総氏と下総の千葉氏も、すべて頼朝に 味方していたわけではない。このような不安定な情 勢のなかで、なぜ鎌倉に入らなくてはいけないかを 考えてみよう。
 頼朝は『三つの奇跡』といえる大ピンチに陥って はそれを克服していく。1 つ目は石橋山の合戦に敗れ、 真鶴から安房に逃亡したときのことで、相模湾を渡っ た。2 つ目は三浦氏とともに江戸湾を渡り安房に逃亡 したとき、3つ目は、頼朝軍が下総から大日川(江戸川)、 隅田川を渡って武蔵へ渡河したときのことだ。この ピンチを克服するごとに、頼朝は東国の武士を味方 につけていく。
 これらを調べるときに有効な史料が3つある。ひ とつは『延慶本平家物語』で、14世紀初めに成立した、 一番古い形の読み本系の平家物語だ。2つめは、千 葉氏に伝わった『源平闘諍録』で、13 世紀末から14 世紀初めに成立した、千葉氏中心の平家物語だ。3 つめは鎌倉幕府の正式な歴史 書『吾妻鏡』だ。
 この3 つの史料を読み比べ て、房総から鎌倉への頼朝再 生の過程と、頼朝が鎌倉入り にこだわった理由を考察した。  そこでわかることは、頼朝は、房総から武蔵を平 定するときに、それぞれの国府を占領し、そこで論 功行賞を行って、国単位で武士をまとめ上げていく。 それを繰り返しながら進攻したことだ。
◎鎌倉入りは先祖の由来と京都へのアピール
 幕府の所在地が、武蔵ではなぜいけなかったか。 茨城に近いところは反頼朝勢力が残っていて危険だ から根拠地がおけなかった。鎌倉も、当時は大庭氏 がいたが、畠山と千葉が先遣隊で敵陣視察をしなが ら鎌倉に入ると、大庭氏は藤沢の奥の方に移っていて、 もぬけの殻だった。だから吾妻鏡の記述でも、頼朝 の鎌倉入りは3 行しか書いてなく、さみしい限りで ある。
 しかし頼朝は、鎌倉に入った瞬間に、『鎌倉殿』に なって、東国の王になった。なぜ鎌倉かといえば、 本拠地を置くなら、討ち死にする可能性もあるのだ から、京都の人に有名な場所、先祖たちに聞こえる 場所で討ち死にしたいと昔の人は考える。どうせ死 ぬなら先祖の由来のところ、京都で名所(などころ)としてよく 知られている地で死にたい。平家にも噂として届く だろう。あの有名な鎌倉で討ち死にしたかと感動さ せたいと考えた。
◎権門体制を破る、新たな武家政権の誕生
 1 1 8 0 年10月6 日の段階では、頼朝は謀反人で反平 家の張本人であり、暴力で軍事占領した非合法的な 政権だった。頼朝の政権は、天皇体制の枠外に誕生 した不良息子なのだ。天皇制の枠内で生まれた平家 や平泉とは、根本的に違う。権門体制を打ち破るも のとして、頼朝の政権は誕生した。
 頼朝は、なぜ、鎌倉入りしたか。先祖ゆかりの地、 地形に恵まれた理想郷、相模國で最も有名な『鎌倉』 に入ってこそ、都の政権に新たな武家政権の誕生を アピールできると考えたのである。

 

第2回ワークショップ報告  平成20年10月26日/御成小学校体育館
〜みんなで考える「世界遺産おすすめルート」〜

第2回ワークショップ:みんなで考える「世界遺産 おすすめルート」が昨年10 月26 日に開かれました。  テーマは、鎌倉の世界遺産候補地を巡るルートを テーブルごとに自由な発想で語り合い、具体的ルート を考えてもらい、鎌倉の価値や魅力をさらに吟味し 確実なものにしていきたい、という狙いで設定され ました。
 第1 回目は鎌倉の各市民層の世界遺産や鎌倉のま ちに対する印象や考え方をつかんでみたい、という ことでテーブルを世代別や立場別に設定しましたが、 この第2 回ではテーブル内で様々な世代や職業が交 じり合うようなメンバー構成にしました。  独創的・魅力的で、しかも一般性もある良い案を 出してもらい、また広い目配りができるよう、世代・ 立場の異なるメンバー同士が活発に議論・検討し合 う場に、可能性を求めました。さらに今回は東京や 横浜など、市外の参加者が前回より増えたことも、 一つの特徴でした。それは今回のようなテーマに取 り組み、具体案を考え出すチームを組むためには、 きわめて望ましいことでした。
 当初、主催者側には、このような多彩なメンバー が初顔合わせで、わずか半日の話し合い+作業でま ともなルート案がまとめられるだろうか、という懸 念もありました。
 しかしそれは参加者たちの情熱、前回に続くテー ブル進行役たちの手際、コメンテーターの宮田一雄 さんと東京大学の赤川学先生の 適切な助言や評、主催側のテー ブル参加者のフォローなどが、 実にうまく噛み合い、杞憂に終 わりました。出てきた案はバラ エティに富み、それぞれが特徴 を持っていて説得力あるもので した。
 6テーブルから出てきた案は、 「武家政権の痕跡をたどるルート、 辻子ふれあいルート」、「おもてな しルート、世界のお客様用と日 本の若者用」、「贅沢・健脚・全資 産ルート、北条氏ゆかりのルート」、 「鎌倉観光・王道コース、海と山・ 自然を楽しむコース」、「禅の道・ 若者の道・健脚の道」、「ゴールデ ンコース」などでした。
鎌倉のエッセンスのみを見るルートから、5 日間か けて全候補資産を巡る案まで、人々のさまざまな要望 に応えられるルート案が出そろいました。
 ワークショップ報告書はすでにできていて、興味 ある方は協議会事務局に連絡をすればお渡しできま すが、中から幾つかのコメントをご紹介します。 「重要なのは、訪れたときに住む人たちの笑顔が輝いていること、 その土地を訪れたことを良い思い出として残し続けていただくこ と・・・『おもてなしの精神』、ホスピタリティが住民の側にも問 われているのだと思います」(赤川)、「点を線で結んでいくルー ト作りの作業には、古都の持つ重層性、ふところの深さ、古さが 生む新しさといったものの魅力を引き出す可能性が秘められてい ます。点に比べ線ははるかに多くの余剰を抱え込むことが可能、 自在に時間の軸を縫っていく形でルートを生み出せる・・・鎌倉 は海を抱えた古都であるところが大きな魅力」(宮田)、また各テー ブルからは「鎌倉に詳しい人、女性・外国人、若者の3つの視点 がうまく調和してルートを設定できた」(A・田川)、「海外のお客 にはまず大仏、昼を挟んで次に鶴岡八幡宮、その後甘味やお買い物、 宿泊場所がほとんどない鎌倉では半日しか時間がとれない」(B・ 長谷川)、「より深くより具体的に鎌倉の遺産について考える機会」 (C・山崎)、「短い間でしたが、楽しい雰囲気の中で豊かな議論と 交流が行えた」(D・横川)「、作成に至る活発な議論に意味がある・・・ 鎌倉の世界遺産登録の進め方にも相通じる」(E・高木)、「パワー と頭の柔軟さ、勢いがある青年達の力も必要、と痛感」(F・大竹)  以上はほんの断片ですが、ワークショップの様子を幾 分かでも感じていただければと記しました。

 

めざせ!世界遺産登録

埋蔵文化財は誇るべき鎌倉の文化遺産    NPO 法人鎌倉考古学研究所

昭和4 6 年以降本 格化した鎌倉市内 の遺跡発掘調査に よって、地下に遺さ れた中世都市鎌倉 の様相が次第に明ら かになってきました。  遺構では武家屋敷、庶民の家屋、寺社の伽藍、道路、 井戸、倉庫、墓地等があり、出土遺物は陶磁器や漆器、 工具、玩具、祭祀具、文房具、武具など実に広汎で、 鎌倉に暮らした中世人の息吹を感じます。  発掘調査成果は、遺跡を史跡として永く後世に伝え るための、有効な手立てとなります。
 『武家の古都・鎌倉MAP』に載る世界文化遺産候 補地の国指定史跡のうち、永福寺跡、東勝寺跡など 5件は発掘成果に基づいて指定されました。また、 鶴岡八幡宮、建長寺など8件の史跡は、指定地内の 発掘によってその評価が更に高められました。  理事長の松尾宣方さんは「当研究所の活動目標は、 遺跡の調査及び活用、歴史学習のサポート、埋蔵文 化財に関わる情報の発信や啓発・普及等の諸事業を 通して、鎌倉に相応しい調査・研究環境を創造する ことで、これは世界遺産登録事業の目指すところと 合致するでしょう。今後の活動に、多くの皆様方の お力添えをお願いいたします」と話されていました。

  小さなみどりは古都景観を護る    いざかまくらトラスト

今、世界遺産登録で再認識されているのが緑の景 観です。それにも関わらず、法的な保護がなくて開発 の危機に瀕している大切な小緑地は、鎌倉の谷戸をつ くる山林、古都鎌倉を囲む三方の山、それに連なる逗子・ 横浜・葉山にも、数えきれないほどあります。 「小さな緑地は市民の手で守ろう!」と、平成2 0 年3 月<いざかまくらトラスト>が発足しました。  代表の伊藤正義さんは、世界文化遺産への登録を文 化庁で推進した経験から、「ヨーロッパでは、景観を守 るのも、緑地を守るのも、まちづくりを決めるのも 市民。一人ひとりの力は小さくても、集めれば大き な力になります。猫のひたいほどの小さなみどりを 護るために、あなたのネコの手を貸してください!」 と話されています。
 発足以来、梶原1 丁目の景観保全の支援、北条氏名 越亭跡推定地の史跡指定と全面保全の支援など地元と 手を携えたトラスト活動と並行して、いざかまくら塾を 開催し、これまでに三方の山の歴史的価値や、梶原・寺 分の歴史について講演しました。5 月は永井路子さんの 講演、6月は石見銀山に学びます。皆さんのご参加大歓迎。 ●お問い合わせは 電話0467-25-3443 佐藤さんまで。

 

「古都鎌倉の世界遺産登録』ってなに?
第10回 法華堂跡はどんなところ?(後篇)

鎌倉幕府の第二代執権・北条義時は、一二二一年の承久の乱で朝廷軍を破って後鳥羽上皇らの所領を没収して流刑に処し、幕府の力が朝廷を上回ることを世に示した人物です。 一一八〇年の源頼朝の侍所設置以来、少しずつ権力を拡大していった武家政権は、この承久の乱の勝利によって約七百年続く全国を支配する体制を完成させたといえます。
『吾妻鏡』には「一二二四年に義時が没すると源頼朝法華堂の東の山上が墳墓の地とされ、そこに建てられた墳墓堂を新法華堂と号した」と書かれています。鎌倉時代末以後その存在が記録になく、一七九七年に書かれた『相中紀行』には「場所がわからなくなっている」とあります。 しかし、二〇〇五年の発掘調査で、大江広元や島津忠久の墓の階段下の平場から、十三世紀前半に造られたとみられる一辺約8.5mの三間四方の建物跡が確認されました。 この建物跡は『吾妻鏡』の記述どおりの場所にあり、創建の年代も一致することから、義時の法華堂で間違いないと考えられています。
頼朝や義時の法華堂へは、執権を始めとする幕府の中心人物達が年末などに参詣していました。この時代、死者を供養する法華堂は火事などで焼失した場合、再建されないことが普通だったようですが、 『吾妻鏡』には頼朝と義時の法華堂だけは特例として再建させたことが見えており、二人が武家政権にとって特別な存在であったことがわかります。

 

News! the 世界遺産

王維坤さん講演会で、文化財保護について市民と意見交換

2 月9 日、鎌倉市役所で「王維坤さん講演会」 が開かれ、基調講演のあと、参加市民との間で意 見交換が行われました。王さんは1952 年生まれ。 西安の西北大学国際文化交流学院教授・副院長。 文学博士(同志社大学)。2004 年、唐代の日本人 留学生、井真成の墓誌を調査した考古学者で、中 国イコモスの重鎮です。昨年春まで国際日本文化 研究センター(京都)に所属し、高松塚古墳の研 究や、文化財保存についての講演など精力的に活 動してきました。一昨年鎌倉の史跡を見学。来日 を機に、鎌倉市民と語り合いたいという申し入れ が、王さんからあり、この講演会が実現しました。
〈講演要旨〉
 皆さまにお会いできて非常にうれしく思います。鎌 倉市民の皆さんが努力すれば、世界遺産になる可能性 は高いと信じます。
 本日、私は文化財に関して、四つの問題を話したい と思います。
 第一は、文物(文化財)保護と世界遺産登録の関 係です。文物は保護すれば長命です。世界遺産登録 は文物保護に有利だと思います。価値のある遺跡を 世界遺産に登録するのは私たちの共同責任です。鎌 倉の大仏は世界遺産にすべきです。中国の世界遺産 は日本に比べて少なく、西安では始皇帝陵しかあり ません。例えば唐時代の大雁塔・小雁塔などの遺跡 はまだ登録されていません。それは私たちが申請を しなかったからです。
 2007 年、高松塚古墳の石室解体という事態に遭遇 しました。石室解体後、壁画や石室をどれだけ正確に 復元できるか、見通しも立たない状態です。考古学者 の一員として文物保護の重要性を痛感します。鎌倉の 大仏はそのままだと風雨・雷及び湿度などでかなりの 影響が予想されますので、どのように保護すべきか考 えなければなりません。
 第二は、現地保護と保蔵庫保護との関係です。古 墳を発掘するといろいろな文物が出土しますが、特 に壁画は永遠に変わらないのは不可能だと思います。 高松塚の写真を御覧ください(発掘当時と2 0 0 7 年の 映像をスクリーンで比較)。心が非常に痛みます。文 化庁の石室解体の決定には賛成できます。しかし少 し遅かったと思います。中国では「羊を失ってから、 檻を修理する」という諺があります。
 高松塚の壁画の年代と発掘の時期はほぼ同じですが、 中国の章懐太子墓出土の壁画の方がよく保護されて います(映像を表示)。直後に剥ぎ取られて保蔵庫に 保存されているからです。
 第三は、考古発掘と文物保護との関係です。考古学 の発掘とは、発掘が目的ではなく、文物を保護するため に行うことです。6 0 年代末期、陜西省文化機関が政府 へ「乾陵発掘計画方案」を申請しましたが、周恩来 首相に「我々が好いことを全部やる必要はありません。 これを後代の人に残し発掘せよ」と指示され、中止に なりました。唐代の皇帝陵は「関中唐十八陵」と呼 ばれています。規模はきわめて大きい。乾陵はこれま で何度か調査されてきましたが、大きいばかりでな く、墓門をふさぐ石板の間に鉄を鋳込んだ堅牢な造 りで、未盗掘の可能性が大きいと思われます。始皇 帝陵を含む大きな陵墓の発掘では、考古発掘と文物 保護との問題をどのように解決するかが何より重要 であり、これが現時点での発掘に反対する理由です。
 第四は、文物利用と科学研究の関係です。高松塚古墳 解体後、どのように保護していくか大きな課題です。発 見から37 年を経た今でも、不明な点が残されています。 被葬者、絵画技法、制作時期、壁画の源流および海獣葡 萄鏡などの研究を一層進めていくことが重要です。例え ば被葬者についても三つの学説があり、細かく分類すれ ば六つ以上になります。草壁皇子・高市皇子・弓削皇子 などの天武天皇の皇子説、石上麻呂説の臣下説、そして 朝鮮半島系王族説などです。私が一番気にしているのは、 海獣葡萄鏡です。この鏡は唐の独孤思貞墓出土の鏡と とてもよく似ており、この鏡の年代が分かれば、高松塚 古墳の年代がある程度推測できます。私は海獣葡萄鏡 と遣唐使を手がかりに検討したいと思っております。  ご清聴ありがとうございました。

 

中学生作文コンクール「世界遺産を鎌倉に!私の提案」表彰式と発表会

世界鎌倉市内の中学生を対象に、「世界遺産を鎌倉に! 私 の提案」をテーマとして、平成20年の夏に作文コンクー ルが実施されました。このコンクールは、中学生の鎌倉 の世界遺産登録に対する関心を深め、登録推進活動に取 り組む機会を作ることを目的としたもので、2 回目の開 催となる今回は324 点の作品が寄せられました。
多数の作品の中から、鎌倉で生まれ伝えられてきた武 家文化と都市に隣接して残っている自然をアピールす るべきと主張した岩瀬中学校の池田朱里さんの作品が 最優秀賞を受賞し、平成20 年12月6日に表彰式と発表会 が行われました。以下は、その作文の内容になります。 この作文は、4 月18日(土)に実施予定の講演会「鎌倉大 仏の歴史的な意義」のオープニングで、池田朱里さんによ る朗読が行われます。詳しくは12ページをご覧ください。

世界遺産を鎌倉に!私の提案
鎌倉市立岩瀬中学校2年 池田朱里
鎌倉では世界遺産に向けての運動が盛んに行われている。私も鎌倉が世界遺産登録されることを願っている。登録を目指す理由は、世界遺産に登録すれば、鎌倉にある歴史遺産を後世に伝えることができるからである。 この鎌倉を世界遺産に登録し、人類共通の財産として保全していくことは私たちの使命ともいえるだろう。そして、その使命を果たした時、鎌倉の魅力である武家文化の歴史遺産を世界中の人々に伝えることができるのだ。 さらに、世界遺産登録への推薦を目指すことによって、関係行政機関や地元住民が一体となり、鎌倉のよりよい新たな町づくりにつながるにちがいない。
では、鎌倉が世界遺産に登録されるためには何が必要だろうか。私は、鎌倉の特徴をもっと前面に出すべきであると考える。なぜなら、すでに登録されている京都・奈良と比べると「古都」という点では特徴が似ていて、世界遺産登録に至らないと思われるからである。 鎌倉は目本史上初めて登場した、武家よって築かれた東国の政権都市である。鎌倉幕府を開いた源頼朝は要塞となる地形を選び、さらに人工的に手を加え、より防衛力を高め、鎌倉に幕府をおいた。私たちはその点に着目し、特徴として打ち出そうとしている。 この武家文化は明らかに京都・奈良にはない特色であり、それを前面に打ち出すことによって鎌倉の独自性をアピールすることができる。この独自性が認められない限り、世界遺産に登録されることはないだろう。 時が流れ、新しい町づくりや開発の中、鎌倉の重要な文化財が失われてしまうかもしれないという不安もある。世界遺産登録を目指すには、まず、ここ鎌倉だけにある武家文化を出していくべきなのだ。また、 都市に隣接しながら残っている海や山、実はここにも文化的価値があるのだが、豊かな自然にも目を向け、鎌倉の良さをアピールしていけばよいと思う。
ところで、世界遺産登録地にはそれぞれ後世に残したいものが必ずある。鎌倉は後世に何を残すのか。私はここ鎌倉にあり、鎌倉そのものともいえる武家文化を、日本の歴史や文化に多大に影響を及ぼした武家文化を後世にまで守り伝えていきたい。 一例を挙げれば、鎌倉時代、武士や民衆に流布し、鎌倉新仏教といわれた禅宗・浄土宗・時宗・日蓮宗などの宗派は、武士の中にも広まり、全国に広まっていった。その寺々は、今生活しているこの町にある。
武家文化を後世に伝えることは、鎌倉独自の歴史遺産が人類共通の遺産として世界的に認められることでもある。だから私は、今生活しているこの町鎌倉にある武家文化、目に見える文化も目に見えない文化も守り続けていきたい。
以上、述べてきたように、私は鎌倉の世界遺産登録を心から願い、それらが人類の歴史上共通の宝となることを信じてやまない。これが鎌倉に住む私からの提案である。

 

Watch! the 世界遺産

北条氏常盤亭跡で
北条氏常盤亭跡は整備が進められていましたが、新 たに説明板やタチンダイ(舘の台、立見台)へ行く 表示、道路に沿った木の柵などが設けられました。 タチンダイもすっかりきれいになっており、遊歩道 には足にやさしい木製チップが敷き詰められています。 近くにある大仏切通も 近々整備に着手する予定です。

 

Event! the 世界遺産

第51回鎌倉まつり「鎌倉の世界遺産登録をめざして」

今回のメインテーマも「鎌倉の世界遺産登録をめざして」 です。今年も若宮大路のパレードに当推進協議会も参加 したり、昨年も好評だった寺社特別拝観めぐりや講演会を実 施します。たくさんの市民の皆様のご参加をお待ちしています。
とき/平成21年4 月12日(日)〜19日(日)  主催/鎌倉市観光協会
プログラム
●12 日(日)若宮大路パレード 
●13日( 月)〜17日(金)世界遺産候補地を中心とした寺社特別拝観めぐり 
鶴岡八幡宮や荏柄天神社、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄光明寺、極楽寺、一升桝遺跡を予定しています。当日は講 師による解説も行います。
● 18 日(土) 講演会「鎌倉大仏の歴史的な意義 〜世界遺産としての位置付け〜 」 鎌倉商工会議所にて、候補資産の1 つである鎌倉大仏の歴史的意義や武家の古都・鎌倉との関わりについて、鎌倉 大仏殿跡の発掘調査成果と併せてお話します。また、当日は平成20 年度「世界遺産登録に向けての中学生作文コ  ンクール」受賞者の朗読や、鎌倉高校の生徒による「鎌倉学」についての 研究成果の発表も行います。
問合せ先/上記のプログラムの詳細は、下記事務局へ。その他、鎌倉まつりの全般的なことは、鎌倉市観光協会(電話0467-23-3050 )まで。

 

大町6.7 丁目自治会&いざかまくらトラスト主催
いざかまくら塾第2回    永井路子さん講演「今、鎌倉をかえりみて」

大町6 丁目の釈迦堂口遺跡は、北条氏名越亭跡と推定され、 中世の面影が残る遺跡の地です。永井路子さんが、NHK大河ド ラマで人気を博した「草萌える」を構想されたゆかりの地でも あります。  思い出深いこの地が発掘調査によりよみがえろうとする今、 永井さんに鎌倉の中世文化について語っていただきます。
とき/平成21 年5 月24 日(日)14 時〜15 時30 分(開場 13 時30分)ところ/きらら鎌倉ホール(JR鎌倉駅東口徒 歩1 分) 定員/250 名(先着順) 参加費/1000 円(当日・ 前売り有)・高校生以下無料
 

いざかまくらトラスト主催   いざかまくら塾 第3 回
石見銀山 登録の経過と未来を語る

とき/平成21 年5 月24 日(日)14 時〜15 時30 分(開場 13 時30分)ところ/きらら鎌倉ホール(JR鎌倉駅東口徒 歩1 分) 定員/250 名(先着順) 参加費/1000 円(当日・ 前売り有)・高校生以下無料
 石見銀山の世界遺産登録を行政側からリードして きた島根県大田市の教育部長、大國晴雄さんをお招 きし、世界遺産登録の経過と登録前後の変化、登録 後の世界遺産センターや基金の運営など様々な活動 について伺います。「世界遺産後」の鎌倉を今から 一緒に構想しませんか
とき/平成21年6月7日(日)14 時〜16 時(開場13 時30 分)ところ/鎌倉商工会議所地下ホール(JR 鎌倉駅西口徒歩2 分)定員/140 名(先着順)参加 費/10 0 0 円(当日)・高校生以下無料

共催/鎌倉世界遺産登録推進協議会 後援/鎌倉市教育委員会 
申込方法/はがき、ファクス、Eメールなどで、(1)希望の日時とタイトル (2)名前 (3)住所 (4)連絡先(電話番号、ファクス番号、 メールアドレス等)を明記してお申し込みください。申込先/いざかまくらトラスト ファクス0 4 67-25-3443(佐藤) 郵送先/〒248-0004 鎌倉市西御門1-21-20 藤井方 いざかまくらトラスト事務所 問合せ先/?0467-44-3863(越野) 

 

編集後記  

 鎌倉の世界遺産登録も待望久しい 国際シンポジウムが開かれ、国際 フォーラムでは、国際的な視野で見 ると「武家の古都・鎌倉」の価値が どう評価されるか、鎌倉の進め方は 大筋では理解されたものの、武家文 化発祥の地・鎌倉をどう表現してい くか等々、市民の関わり方を含めて いろいろな示唆を与えられました。 そして多くの課題とともに、私たち 推進協議会の事業の重要性も改めて 認識することができました。
 鎌倉塾の要旨は短すぎて申し訳あ りません。鎌倉塾から鎌倉の世界遺 産学を発信したいと願っていますの で、いずれもう少し詳しい内容をま とめてみたいと念願しています。  第2回ワークショップは、多くの 市民の皆様から様々なアイデアをい ただき、鎌倉の世界遺産登録が本当 に地に着いた市民のものとなりつつ あることが実感できて、嬉しい限り です。
 2回目の国際シンポジウムを開こ うという準備も始められるようです。 どこの都市でも行政が先行するよう ですが、鎌倉は市民も一緒に取り組 んでいることを示したいと思います。        広報部会長 内海恒雄

鎌倉世界遺産登録推進協議会ホームページ只今更新中!

http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/

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