鎌倉世界遺産登録推進協議会
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武家の古都・鎌倉ニュース第12号

 

鎌倉世界遺産登録推進協議会
平成21年度総会を開催しました

20 0 9 年5 月19 日(火)、鎌倉商工会議所地下ホール において、鎌倉世界遺産登録推進協機会(以下「推進 協議会」という。)の総会が開催されました。
   第一部として行われた定期総会では、まず養老孟司 会長挨拶の後、出席役員の紹介を行いました。続いて 議事に入り、平成20 年度事業・決算報告、監査報告、 平成21年度事業・予算計画を報告し、承認されました。  今回は、事業報告について、配布資料だけでなく、 出席者にわかりやすい報告となるよう、映像を交えて の説明でした。会場には、昨年より多くの方々が出席 され、参加者から「県民、国民及び世界の人々に対して、 PRとあるが、どんなことを具体的に考えているのか」 と質問が飛ぶなど、世界遺産登録推進に対する関心の 高さが伺える総会となりました。
 質問に対しても、奴田不二夫登録推進事業部会長、 内海恒雄広報部会長から、「今後、国際会議を通して の広報活動やマップの英語版作成などに取り組んでい く。」と説明がされ、世界を意識した取り組みの姿勢 が感じられました。
 最後に、副会長である石渡徳一鎌倉市長が挨拶に立 ち、第一部を終了、第二部では、事務局から世界遺産 登録に関わる現在の準備状況が報告されました。

 

第五十一回 鎌倉まつり
「鎌倉の世界遺産登録をめざして」

4月12日からの一週間、鎌 倉の春恒例、鎌倉市観光協会 主催による第五十一回鎌倉ま つりが開催されました。今年 も「鎌倉の世界遺産登録をめ ざして」がメインテーマとな り、推進協議会も共催して次 の行事に参加しました。
 4月 12 日( 日)に若宮大路 で行われたパレードには、「鎌 倉は世界遺産登録をめざして います」と書かれた京急バス 『りんどう号』を先導に、奴 田不二夫事業部会長を囲んで、 甲冑姿のフランス大使館の方 や、県立鎌倉高校の生徒も加 わり、まさに国籍を超えての パレードとなりました。沿道 では「武家の古都・鎌倉MA P」の配布も行われました。
 4月 1 8 日(土)には、「も っと知ろう、世界遺産講演会」 第2弾として、清水眞澄成城 大学学長をお迎えして「鎌倉 大仏の歴史的意義」が行われ ました(3Pに講演要旨を掲 載)。当日は同じ会場で、鎌 倉市青少年指導員連絡協議会 が実施した〈世界遺産登録推 進 中学生作文コンクール〉 最優秀賞の岩瀬中学校 池田 朱里さんの「世界遺産を鎌倉 に!私の提案」の発表や県立 鎌倉高校の「かまくら学」の 研究成果の『隠れた遺産「切 通」』と『「宗教都市」として の鎌倉』の発表があり、世界 遺産についての若い人の理解 がよく示されていました。ま た、鎌倉市文化財課の福田誠 さんの講演「鎌倉大仏の謎」 も行われました(2Pに講演 要旨を掲載)。多くの方にメッ セージを伝えることのできた 一週間でした。

 

第51回鎌倉まつり報告
寺社特別拝観めぐり〜 鎌倉の世界遺産候補地を訪ねて〜

4 月13 日(月)〜 17 日(金)、世界遺産の候補地を めぐる<寺社特別拝観めぐり>が、推進協議会広報 部会長の内海恒雄さんの案内により行われました。 世界遺産候補地の寺社には、通常公開されていない 史跡や文化財なども含めた特別拝観をお願いし、そ のご指導を守り、より望ましい特別拝観を実施しよ うというものでした。
  ○4月13日
建長寺では、山 門の釈迦如来や 羅漢像、西来庵 の昭堂、法堂の 千手観音像、正 統院の高峰顕日 像、禅居院の聖菩薩観音像等をご住職等のご案内で特 別拝観しました。
○4月14日
鶴岡八幡宮の若宮の正式参拝、源頼朝墓の法華堂跡や、 荏柄天神社本殿の拝観を予定していましたが、雨天で 中止しました。
○4月15日
円覚寺では、山門・仏殿・選仏場から正続院の舎利殿、 白雲庵の朝鮮等の古石塔群や東明慧日像、帰源院の傑 翁是英像等をご住職等のご案内で特別拝観しました。
○4月16日
寿福寺では、仏殿 の釈迦三尊や栄西 像等、浄光明寺で は、阿弥陀三尊や 冷泉為相墓から覚 賢和尚の墓等を特 別拝観しました。
○4月17日
極楽寺では、本堂の不動明王や文殊菩薩像、公開日で はない転法輪殿で釈迦如来・十大弟子像等を特別拝観 しました。公開 されていない一 升桝遺跡は、特 別に見学して鎌 倉時代の交通路 支配の様子が確認できました。

 

鎌倉大仏の謎 〜埋もれた鎌倉の歴史を探る〜

4 月18日(土)、鎌倉市教育委員会文化財課・福田 誠さんの「鎌倉大仏の謎〜埋もれた鎌倉の歴史を探 る」という講演も行われました。以下はその要旨です。
 鎌倉大仏に関する謎は6つ挙げることができる。(1) 大仏はいつ造られたのか? (2)『東関紀行』に見える、 寛元元年(12 4 3)に開眼供養された木造大仏とは? (3)木造大仏と銅造大仏との関係は? (4)(4)大仏を建立し た浄光とは? (5)大仏の鋳造方法は? (6)大仏殿は存 在したのか? これらの謎のうち、発掘調査から(5)と (6)が明らかになった。
 (5)について、大仏方向に高まる数層の斜面堆積が確 認された。このことから、鋳型の固定のために数度に 分けて周囲を土砂で埋め込むという方法が取られたこ とが推察され、鋳込み作業を終えた時には、大仏は完 全に円錐の山に埋もれていたと考えられる上図参照)。 その後、大仏を掘り出し、大仏殿を建てるため平坦な 地面に再び整地し直したと考えられる。大仏が数段に 分けて鋳込まれたことは大仏表面に残る横線からも推 察される。またこの斜面堆積の発見は大仏がこの場所 で鋳込まれたことも意味する。
 (6)について、砂利と泥岩を交互に堅く突き固めて地 盤が強化された礎石の基礎が10 ヶ所で確認された。こ のことから大仏殿が存在したことは確実であり、また、 その規模が正面7間、145 尺(約44m)、側面7間、 140 尺(約42.5m)、柱の数が60 本に達することが推 察された。しかし、『鎌倉大日記』などに見られる、 津波で大仏殿が流されたという痕跡は、今回の調査で は確認されなかった。

 

講演会 もっと知ろう、世界遺産(第2弾)
鎌倉大仏の歴史的意義 〜世界遺産としての位置付け〜

成城大学学長 講師/清水眞澄さん

4 月18日(土)、<鎌倉の世界遺産登録をめざす市民 の会>と推進協議会の共催により、鎌倉商工会議所 地下ホールで、成城大学学長の清水眞澄さんによる 『鎌倉大仏の歴史的意義』についての講演会が開催 されました。
 以下はその要旨です。
鎌倉大仏は卒論にとりあげて以来、研究を続けて 40 年になるが、まだ分からないことが多い。本日は、 鎌倉大仏とはどんなものなのか、建立の歴史と問題 点、姿と形―彫刻史から見た大仏、どのように造ら れたのか、そして終りにという順で話をしたい。
 鎌倉大仏は、鎌倉中期に鋳造された阿弥陀如来像 で、昭和33 年(1958)国宝に指定されている。結跏 趺坐して阿弥陀定印を結ぶ。嘉禎4年(1238)3 月に、 僧浄光の企てにより、深沢の里で大仏堂造営の事始 めが行われ、同年5 月に周尺八丈の大仏の頭部が上 がり、寛元元年(1243)に開眼供養されたと『吾妻鏡』 に記されている。4 年後の『東関紀行』の仁治3 年 (1242)の記事によれば、それは木造仏だったことが わかる。現在の銅造大仏は、建長4年(1252)鋳造 を開始した記事が『吾妻鏡』にあるが、完成の記録 はない。それから10 年後くらいの完成であろうか。 歴史史料の上では鎌倉大仏・鎌倉新大仏と称されて いるが寺名はなく、一般の寺院とは違った宗教形態 をとっていたと思われる。高徳院という名は江戸時 代になってからである。
 大仏殿は3、4回建て替えられたようで、文明18 年 (14 8 6)に露座であることや、明応7 年(149 8)に津 波による大仏殿倒壊の記事以後は、建てられること はなかったようである。
 次に建立の歴史と問題点であるが、木造の大仏と 銅造の大仏とをどのように考えるべきだろうか。『東 関紀行』によって最初は木造であったことが分かる が、その後銅造に造りかえられる。後に述べる鋳造 技法において、この大仏は木型を原型としたと考え られるので、最初に造られた木造大仏を原型にした とすることもできよう。
 次に、勧進僧として登場する僧浄光については、 大仏堂造営の事始め、開眼供養、大般若経の奉納な どを行ったとされるが、その来歴はよくわからない。 いずれにしても、大仏の造営には、浄光の勧進活動 だけではなく、泰時・時房・時頼など幕府あるいは 北条氏が力を注いだものと推測される。
 平安時代の末、戦乱によって灰燼に帰した東大寺 は、俊乗坊重源の勧進活動によって建久6 年(1195)に 再建された。その東大寺大仏と浄光の勧進による鎌 倉両大仏の間には勧進のありかた、存在意義の基本 的な思想に深い関わりがあるといえる。
 次に形と姿であるが、鎌倉大仏はやや猫背でうつむ き加減の姿に特徴がある。また、上半身に衲衣、下半 身に裙を着け、装飾のない如来の姿である点は、他の 多くの阿弥陀像に共通するものの、衲衣を右の肩をわ ずかに覆う偏担右肩ではなく、両肩を覆い胸をU 字状 に開けて通肩に着けるところに特色がある。また定印 の立てた人差し指の爪先が親指より上に見えるという 特殊な形や、瞳を造っていること、ひげをたくわえて いることなど、細部にも神経が行き届いている。額の 白毫と肉髻は江戸時代に修理されたものである。  そして、中国の絵画を模して造られた兵庫・浄土 寺の阿弥陀像などに見られる、いわゆる宋風の影響 を受けた様式と、慶派仏師の力強い作風を兼ね具え た像といえる。
 大仏はどのように造られたのだろうか。一般的に 銅造の大仏を造るとするならば、原像を塑土で造り、 原像から外型を取り、その後に原像の表面を銅の厚 さだけ薄く削って、外型との間に隙間を空け、そこ に溶かした銅を流し込んで造ることになる。これを 削り中子の鋳造技法という。
 ところが鎌倉大仏の場合は、木造の原像から外型 をとった後、外型から中型を造り、その中型の表面 を削って、外型との間に隙間を設け、その間に溶か した銅を流し込んで造るという、複雑な技法を用い ている。あえてそうしたのは、前記した最初に造ら れた木造大仏の存在が大きかったのではなかろうか。 また、巨大な像であるため、下から何段かに分けて 鋳込んでいるが、それには多くの型を狂いなく組み あげるには難しい技術を要する。段と段との間を強 固につなぐ仕組み、何種類もの「鋳繰(いからく)り」という高 度の技法を駆使していることに驚かされる。
 終りになるが、鎌倉大仏は王法・仏法の拠り所と して造営され、今日まで信仰が生きていること、優 れた鋳造技術によって造られた日本彫刻史上重要な 鎌倉時代の作例であることなど、世界遺産にふさわ しいモニュメントである。

 

武家の古都  鎌倉塾  平成21 年度春季講座第1回講演要旨
「鶴岡八幡宮・若宮大路」


講師:NPO 法人鎌倉考古学研究所 斎木秀雄さん
とき:平成21 年5 月23 日(土)   ところ: 鎌倉生涯学習センター第5 集会室

◎頼朝と鶴岡八幡宮
 鎌倉初期の地形は、由比ガ浜と御成小学校あたり は砂丘であり、材木座の海寄り西側は湿地帯で東側 は砂丘だった。鎌倉駅あたりから北方は水田だった と考えられる。なお、滑川は現在東勝寺跡あたりの 岩盤上を南へ流れているが、自然の川が岩盤の上を 流れるのは不自然で、かつては西の方向に流れ、今 小路(この路は15 世紀頃に造られた)あたりから南 へ流れていたと推定できる。開発は水田地帯から始 まった。頼朝が先祖旧跡の地である鎌倉に入ったの が治承四年(1180)、由比若宮を現在地(小林郷北山) に遷し、屋敷を大倉に造営する。いわゆる大倉幕府 である。翌年に鶴岡八幡宮が、次の年、寿永元年 (1182)には若宮大路が造営された。八幡宮は神仏混 淆であるから、御谷周辺に二十五坊が営まれ、鶴岡 八幡宮寺としてほぼ完成を見たのが建久年間(119 0 〜 1198)であった。明治2 年(18 69)までに、神仏 分離政策で大塔・鐘楼などが破却されて現在に至る。

◎鶴岡八幡宮の主な発掘調査
 主な発掘調査の地点は以下の通りである。
1 . 鎌倉市立授産所用地(196 7 年)
2 . 直会殿用地(1979 年)
3 . 裏八幡西谷遺跡−県立近代美術館別館用地(1980年)
4 . 研修道場用地(1981 年)
5 . 鎌倉国宝館用地(19 82 年)
6 . 鶴岡文庫用地(1987年)
7 . 若宮大路(19 89 年)

 2 地点からは、大塔の基礎、天正の指図に描かれた 回廊、鎌倉初期の参道などが確認された。4 地点か らは、東側の土塁、内側の溝、最下層では、最も西の 国宝館寄りでやや湾曲した溝( 7 溝)が確認されて いる。12 世紀第3 四半期頃で、初期溝の可能性がある。 漆器や木製品などが出土しているが、7 溝の出土遺物は、 平泉遺跡群の衣川館辺で出土する遺物に類似しており 12世紀後半のものである。土塁は13 世紀初期には造 られている。5 地点では、4 地点の7 溝以前の遺構が確 認され、男女を合葬した土壙墓が発見された。11世紀 から12 世紀初頭の水田があり、それが埋没した後に 合葬墓が造られ、さらに墓が埋没した後に八幡宮が造 られるという流れが見られる。
 二十五坊の遺跡は1、3、6 地点に跨るが、1 地点の 調査では、鎌倉から江戸時代までの遺跡が良好に確認 されたことにより、授産所の計画は変更され、遺跡は 保存されることとなった。古都保存法制定の契機と なった調査である。3、6 地点からは鎌倉時代から近世 にかけての坊が確認されている。
 7 地点は、若宮大路両側の電線埋設化に伴って調査 されたものであるが、鎌倉女学院北西の交差点付近か ら、一の鳥居の柱が発見された。天文22 年(1553)に 建立された鳥居である。現在の鳥居は寛文8 年(1668)、 徳川家綱が建立したものである。発見された鳥居は、 天文4 年(1535)、安養院の僧、玉運が夢に見て再建を 企て、上総峰上に用材を得、天文9 年(1540)に鋸初め、 中断の時期があって完成したのが天文22 年であった。 三重に木材を結合した「チギリ」という構造で、発見上 部の直径1.6m。八角形の中心材に、8 枚の中周材を組 み合わせて16 角形とし、その周りに16 枚の外周材を 組み合わせて、外側を円にしている。この柱と対をなす もう一本の柱は明治時代に掘り出されて消失している。

◎発掘調査から見る鶴岡八幡宮
 一の鳥居は、鎌倉女学院北西の交差点北西にあった。 この前にある道路が車大路で、段葛・若宮大路はここ から始まる。南は前浜といい、砂丘となっていた。由 比若宮は潟湖の北岸近くの砂丘にあった社であった。 5 地点の国宝館用地には八幡宮創建前の合葬墓があっ たが、埋葬地と被葬者は源氏にかかわりが強いと考え られる。
 八幡宮から東側は永福寺・大慈寺までが大倉、西側 は寿福寺まで含めて亀ケ谷という地名で、八幡宮だけ が小林郷北山と称されている。以前の名は亀ケ谷だっ た可能性がある。義朝の「鎌倉の楯」は亀ケ谷(寿福 寺辺り)といわれているが、そこは地形が狭く、ふさ わしい場所とは思えない。「鎌倉の楯」は八幡宮の辺 りにあったのではないだろうか。大胆な仮説であるが、 そのように考えれば、合葬墓の存在意義も理解しやす く、頼朝がそこを鶴岡八幡宮の鎮座する地として選ん だ必然性が説明できる。

 

めざせ!世界遺産登録

市展に世界遺産部門    鎌倉市文化協会

鎌倉市文化協会には音楽 関係7団体、美術等展示関 係6団体、舞台関係8団体 の計21団体が所属しており、 全団体合わせると約17,000 名にもなります。
 最も大きな活動は鎌倉市民文化祭の運営・参加です。 9月のオープニングイヴェントに始まり、61 回を数え る市展を含め、今年も第52 回鎌倉市民文化祭を秋 3 ヶ月半に亘り開催します。
 市展の美術と写真両部門では2 007 年から世界遺産 登録をアピールするため、鎌倉の世界遺産候補地を モティーフにした作品を募集し、世界遺産部門とし て展示しています。今年はより多くの応募を期待して、 この部門だけ展示期間を倍にします。
 また2 0 0 8 年4月には、鎌倉在住の画家20 余名に世 界遺産候補地を描いてもらい、写真連盟会員の同じ モティーフの写真と共に展覧会を開催しました。5 月 には美術、写真、書道、鎌倉彫による「アートで後押し展」 を開催し、文字通り世界遺産登録を応援しました。
 理事の村田さんは「鎌倉市が世界遺産登録推進活 動を継続する中で景観は守られ、整備され、市民の文 化的な意識が高まるのですから、今後も文化協会は 強力に活動を支援して参ります。必ずや世界遺産登録 が実現することを信じて。」と抱負を語ってくれました。

  りんどう号で世界遺産登録をアピール    京浜急行バス株式会社

 京浜急行バス株式会社では、車体に「鎌倉は世界遺 産登録をめざしています」というメッセージと「武家 の古都・鎌倉」のシンボルマークを描き、世界遺産登 録をアピールするレトロ調のバス「京急りんどう号」 を運行しています。
 このりんどう号は2 代目で、推進協議会にご参加い ただいている同社の創立5周年と京浜急行電鉄の創立 110 周年を記念して、2008年10 月に復活しました。通 常はJR鎌倉駅東口から大仏前までの路線で運行され ていますが、鎌倉まつりや京急ファミリー鉄道フェス タ、横浜ベイスターズファン感謝デーなどのイベント 時にも登場し、観光客などの市外県外の方々へ鎌倉の 世界遺産登録を強くアピールしています。同社には、 「古都鎌倉に合っている」という声だけでなく、「りん どう号を見て初めて鎌倉が世界遺産をめざしているこ とを知った」との声が寄せられているそうです。
 京浜急行バスさんは「鎌倉の世界遺産登録をめざし た取り組みへ、 自動車事業を営 む企業として、 今後も全面的に 協力します」と、 抱負を語ってくれました。

 

「古都鎌倉の世界遺産登録』ってなに?
第11回 東勝寺跡はどんなところ?

東勝寺跡は、一三三三年の新田義貞の 鎌倉攻めにより鎌倉幕府滅亡の地となっ た場所です。
 東勝寺は第三代執権北条泰時が、一族 の氏寺として建立したと伝えられていま す。『太平記』には「北条高時は父祖代々 の墳墓の地である葛西ヶ谷に、守る兵は 東勝寺に籠って自害し、館に火をかけた」 とあります。丘陵中腹にある腹切やぐら では宝戒寺により北条氏一門の供養が行 われていますが、宝戒寺の寺伝によれば 東勝寺での死者は葛西ヶ谷の東側の釈迦 堂谷に葬られたとあります。事実、釈迦 堂谷やぐら群からは刀傷のある生焼けの 人骨や初七日にあたる「元弘三年五月二 十八日」銘の五輪塔が出土しています。  昭和四十九年以降、東勝寺跡では4度 の発掘調査が行われ、平成八年度の調査 で確認された炭層を伴う掘立柱建物跡は、 『太平記』の記事にある幕府滅亡時に焼 けた建物と考えられています。古代から 中世の東国の武士館は背後に山を負い、 有事の際にはそこに立て籠もるのが特徴 でした。東勝寺跡はまさにその機能を発 揮した場所だったのです。このことは、東 勝寺跡周辺の丘陵に残された堀切やテラ ス状に造成された平場などの多数の土木 遺構からも窺い知ることができます。
 これまで東勝寺跡の発掘調査で確認さ れている鎌倉時代の遺構は、寺院という よりは館の建物の特徴を示しており、館 の一角に寺院があった鎌倉時代の武家館 の特徴が窺える重要な遺跡だといえます。

 

News! the 世界遺産

いざかまくら塾第2 回   永井路子さん講演「今、鎌倉をかえりみて」

直木賞受賞作「炎環」の舞台となった釈迦堂口遺跡と 中世鎌倉についての講演「今、鎌倉をかえりみて〜衣張 山のふもとの景観と釈迦堂口遺跡〜」が5月24日(日)、大 町6・7 丁目自治会(現・衣張山自治会)といざかまくら トラスト、推進協議会の共催により、きらら鎌倉ホールで 行われました。定員280人の会場は満席となり、作家と して、鎌倉の歴史と世界遺産について語る永井さんの 軽妙な語り口に沸きました。以下は講演要旨です。
◎伝説の皮をむく
 環状七号線の工事のため東京の家がとられたので、 鎌倉山に家を建てて住んだ。鎌倉のことを小説に書く ためということではなかった。最近「岩倉具視 言葉の 皮を剥きながら」を書いたが、言ってみれば伝説の皮 をむくのが面白くて、歴史小説に取り組んだ。日本に おける変革の時代とは何なのだろう。それは鎌倉では ないかと前から考えていた。思いがけないことが出て くる鎌倉の歴史に取り組んだ。釈迦堂口遺跡とやぐら 群は大変な文化財なのに、文化財として指定されてい ないのは驚きである。やぐら群のような重要な文化財 を指定しないで、何が世界遺産登録かと言いたい。
◎世界遺産
 はじめは世界遺産は経済的に困難な状況にある文化 財保存の手伝いをするということだったが、世界遺産 の初期の思いがねじまげられている。観光資源として の価値があがるのではないかとみられるようになった。 廃墟のようなところでも、世界遺産になるとみな行く ようになる。人寄せのために世界遺産になりたいとい う心情があるとすれば、いただけない話である。
◎武士団の誕生
 空気の色も東と西とでは違うといわれる。京都の方 は優雅でお金持ち、東国は貧乏で、空気の色さえ全く 違うと見られていた。東国は年貢をおさめ、西国は吸 い上げるところだった。しかも東国は土地が痩せていた。 農民たちは農業器具を改良し、水を引いてたんぼをつ くることを考えた。土地が大きな財産だということに 気がついた。土地をめぐってけんかや戦いが起きるよ うになった。でも無限に争っていては何もない。だか らみなで自動制御して仲良くしようということで、農 民の大連合ができた。そこに棟梁として担がれたのが 源頼朝だった。非常に雑な言い方だが、これが武家政 権の始まり、中世の始まりとなった。
◎乳母(めのと)の力
 三浦一族は頼朝との 縁があったので、旗揚 げにあたっては中心に なった。北条氏は伊豆 の小さな豪族だった。北条政子が頼朝と結婚し、源氏 の旗揚げにも参加した。鎌倉武士もなかなかしたたかで、 鎌倉時代の半分ぐらいまでは三浦と北条はにらみあっ ていた。比企一族も北条にとって恐ろしい相手だった。 比企尼は頼朝の乳母として大きな力を持っていた。天 皇家でも乳母が政治的な駆け引きにも影響をあたえた。  頼朝と政子の間に実朝が生まれると、政子の妹の阿 波局が乳母になった。つまり実朝を後継ぎにするために、 いろいろ手を打った。頼家は比企一族の若狭局と結婚し、 一幡(いちまん)が生まれた。頼家の次は一幡となると、北条は力 を失う。そこで釈迦堂口の名越邸で若狭局の父親比企 能員の謀殺に至り、比企一族は滅んだ。
◎険しい世界遺産への道
 名越邸には様々な歴史がからんでいる。良きにつけ、 悪しきにつけ鎌倉のすべてが入っている。オリジナル でなければだめだというのが世界遺産の特質である。 鎌倉でオリジナルなものとは何か。大仏だけではちょっ と辛い。だが日本の中世は鎌倉である。世界遺産への 道は険しいと思うが、鎌倉は、中世にとってめざまし い歴史の変化のあったところなのだということを売り 込まないといけない。私も及ばずながら、お力にはな りたいと思う。
【質疑から】北条政子の生き様に共感 
 鎌倉の女性としては、北条政子に興味がある。将軍 の御台所に出世したからではなく、小豪族の家に生ま れた田舎娘が、はだしで歴史を歩いているところが面 白い。尼将軍といわれているが、将軍にはなっていない。 弟の義時は、政子を頼朝の身代りとして歴史に押し出 したが、何とか重荷を背負って生き続けた。

 

いざかまくら塾第3回   世界文化遺産 石見銀山遺跡 登録の経過と未来を語る

6 月7日(日)、鎌倉商工会議所地下ホールにおいて、い ざかまくらトラストと推進協議会の共催で、2 0 0 7 年に 世界文化遺産に登録された石見銀山についての講演会が 開かれました。行政の側から登録に携わってきた、島根 県大田市教育部長の大國晴雄さんを講師に招き、登録へ 向けての取り組みや経緯などを伺いました。伊藤正義さ ん(いざかまくらトラスト代表・鶴見大学教授)の司会に よる質疑応答もあり、登録のノウハウや問題点などが語 られ、多くの示唆を得ることができました。
(講演要旨)
◎遺跡の概要
 大永6 年(1526)に本格的に開発された石見銀山は、 天文2 年(1533)東アジア伝統の灰吹法を応用した精 錬技術が導入されて生産量が飛躍的に増加する。産出 した大量の銀は、16 世紀から17 世紀東アジアに流通し、 さらにヨーロッパの東アジア進出を促し、東西の文化 交流を促進した。銀の産出から搬出までの全体像を示 す遺跡が、自然環境と一体となって文化的景観を形成 しているところに石見銀山の際だった特色があり、伝 統的技術の痕跡、集落、街道、港町、寺院、山城跡な ど14の資産を数える。しかし、バッファゾーンを含め て2000 人程度の人口に過ぎず、ほとんどは遺跡で脆 弱な資産である。
◎世界遺産登録まで
 1996年以来、世界遺産登録を目指して島根県と大田 市が遺跡の全容解明にむけた総合調査を開始、併行し て史跡指定の拡大、重要建造物保存地区の選定などを 進め、個人住宅にも補助金を拠出して発掘調査と共に 建造物の保存に努めた。他方、昭和32 年(1957)大森 町の全戸加入で文化財保存会が成立、以来、全町民が 保護活動に参加してきた。世界遺産登録もそれらの延 長線にあるものとして地域住民に受け入れられた。住 民生活とのかかわりを持った文化財保護は、遺跡を複 層的、複合的に考えることであり、石見銀山の登録は、 遺跡と住民との共生を柱として進んだものだ。
◎登録の経緯
 2007 年5 月、イコモスによって、顕著な普遍的価値 の証明が不十分という理由で、「登録延期」が勧告され たが、その後、委員会国の代表への説明などの努力が 重ねられ、6 月にニュージーランドのクライストチャー チで開かれた世界遺産委員会において、「登録延期」 の上のランクである「情報照会」を超えて登録が決定 された。登録基準に照らして、銀を通した文明の交流 が基準iiに、遺跡に残る銀生産の技術が基準iiiに、「停 止」、「継続」した文化的景観が基準Vを満たしている ことなどの評価が得られた結果である。応援してくれ たのは、前年スウェル鉱山が登録されたチリやインド、 アフリカなどの途上国、そして先進国では日本と通商 の歴史の長いオランダであり、これらが突破口となっ て登録に結びついた。
◎登録後の取り組み
 地域住民の誇りとなりつつあるが、登録は地域振興 や観光振興を目指したものではなく、住民憲章に明記 しているように、「おだやかさと賑わいの両立」を目 指している。急増した観光客対策として、駐車場の整備、 バスの運行、ハーフボランティアによる史跡の案内や 交通整理などで対応しているが、観光客の増加により、 宿泊や地元産業に好影響がある一方で、これまでの穏 やかな暮らしを乱されたくないという思いもあり、現 在、官民組織の石見銀山協働会議による石見銀山行動 計画の実現に努力している。
◎講演、質疑応答を通して見えてきた問題点
 自然との共生、未来に対しても責任を持つ住民の意 識が大切である。他国の同類の文化遺産との比較研究 が不可欠で、それを通して顕著で普遍的な価値を説明 すべきである。推薦書がイコモスに理解されるよう、 ことばのニュアンスまで含めて正確に伝えられること。 委員会国でも途上国や先進国との間に評価や考え方に ずれがあり、また、文化遺産評価の考え方は相対的、 流動的であるため、先行の事例は必ずしも参考とはな らない。状況や評価の流れを予見し、情報を入手して それに対応しなければ登録は難しい。

 

Event! the 世界遺産

第2回  「武家の古都・鎌倉」国際フォーラム
〜 鎌倉を守り伝えるために 〜

 今年の1月から2月にかけて開催した国際シンポジウム を受け、鎌倉の世界遺産登録に向けた取り組みが着実 に進むなか、その現状をより深く理解していただくととも に、国内外の専門家の講演やパネルディスカッションを行い、 世界遺産登録が持つ本来の意義や目的について改めて考 えていきます。
 また、今回のフォーラムでは、市内在学の中学・高校生 による、鎌倉の世界遺産登録や歴史をテーマにした発表も 行う予定です。

と  き平成21年8月2日(日)13時〜16 時30分 
ところ 鎌倉女学院中学校・高等学校 アリーナ
定員 2 5 0 名(入場無料) 
主催 文化庁、神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会
募集期間 平成21 年7月1 日(水)〜 7 月24 日(金)必着(先着順)
出演者 クリストファー・ヤングさん(英国)、ル・ズーさん(中国)、ジョセフ・キングさん(米国)、 西村幸夫さん(東京大学先端科学技術研究センター教授)、岡田保良さん(国士舘大学イラ ク古代文化研究所教授)、稲葉信子さん(筑波大学大学院世界文化遺産学専攻教授)を予定
申込方法  次の(1)〜(4)の項目を記載の上、下記申込先まではがき、ファックス、Eメールなどでお申 し込みください。なお、複数名の場合は同行者の氏名もお願いします。(1)催事名『「武家 の古都・鎌倉」国際フォーラム係』 (2)氏名(ふりがな) (3)住所 (4)連絡先(電話番号、ファッ クス番号、Eメールアドレス)
申込先・問合せ先  〒248- 8686 鎌倉市御成町18 -10 鎌倉市世界遺産登録推進担当 電話:0467- 61- 3849 ※お申し込みされた方全員に、7月30日(木)までに、結果をハガキでお知らせします。

編集後記  

今年1月から2月にかけて開かれ た国際シンポジウムに続き、7月か ら8月には国際会議が開かれ、鎌倉 の世界遺産登録はいよいよ正念場を 迎えます。第2回国際フォーラムも 開かれますので、奮ってご参加くだ さい。
 推進協議会の総会で、改めて事業 の多彩なことに驚きました。新規の 事業もありますが、参加団体からの 提案と事業推進への積極的な参加を お願いします。
 鎌倉まつりのようなところで、世 界遺産の事業が行えるのは鎌倉なら ではと思います。若い人にも参加で きて、多くの人が楽しめるイベント もお願いしたいものです。
 講演会では、清水眞澄さんから鎌 倉大仏の歴史的意義を伺い、福田誠 さんから大仏の謎の発掘調査による 解明がされました。
 永井路子さんからは鎌倉の歴史遺 産の保存の重要性を認識させられま した。大國晴雄さんからは、石見銀山 の登録の経過や町の現状と未来への 課題を伺いました。いずれも鎌倉の 世界遺産が抱える基本的な課題だと 思いますので、よろしくお願いします。
       広報部会長 内海恒雄

鎌倉世界遺産登録推進協議会ホームページ只今更新中!

http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/

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