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寺院跡・武家館跡・港跡

寺院跡

永福寺跡

永福寺跡

発掘調査時(1986年)

発掘調査で見つかった遺物(瓦)

出土した瓦

概 要

 鶴岡八幡宮から北東約1.3㎞に位置する永福寺跡は、武家が政権を樹立した当初に、神道とともに仏教の振興をも意図したことを示すと同時に、谷を造成して建立された寺院として、後の鎌倉における寺院選地・造営に影響を与えた寺院境内の考古学的遺跡です。

歴 史

 永福寺は、鎌倉幕府の成立期に当たる1189年に奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が、1192年に敵の戦死者の冥福を祈って建設を始めた寺院です。『吾妻鏡』によると、永福寺は、平泉に威容を誇った中尊寺二階堂大長寿院や毛越寺金堂が範にされたことが分かります。

 頼朝の死後は将軍家の遊興の場所として繁栄しましたが、鎌倉幕府滅亡後は寺勢が衰え、近世期には廃絶してしまいます。

 1966年から数次に及ぶ発掘調査等が実施され、当時の伽藍配置やその変遷、苑池や鑓水などの遺構が良好な状態で保存されていることが確認されています。この成果に基づき、1997年に整備基本計画が策定され、2006年以降、公開活用を目指した整備事業が段階的に実施されています。

永福寺跡の復元想像CG(コンピューター・グラフィックス)

鎌倉市二階堂

JR鎌倉駅東口4番バス乗り場から「大塔宮」行き終点下車徒歩約5分

法華堂跡

源頼朝墓

源頼朝墓

北条義時墓(発掘調査時)

北条義時墓(2005年発掘調査時)

概 要

 鶴岡八幡宮から北東約0.6㎞に位置する法華堂跡は、山稜部裾に造り出した平場に、鎌倉幕府の創始者源頼朝と第2代執権として武家政権発展の礎を築いた北条義時の死後の冥福を祈る建物(法華堂)が建てられた地であり、山稜部の裾を造成して境内を確保する鎌倉の特長を示す遺跡です。

歴 史

 頼朝は1199年に53歳で死去し、生前に建てた持仏堂に葬られたとされますが、この持仏堂が法華堂になったと考えられています。幕府創始者の墓堂として、後の武家からも篤い崇敬を受けました。

 近世に入ると法華堂は山裾(現在の白旗神社の位置)に移り、法華堂があった山腹には石塔の頼朝墓が造られました。1779年には薩摩藩主島津重豪によって頼朝墓の整備が行われ、現在に至ります。

 義時は、1224年に62歳で死去し、頼朝法華堂の東山上に義時墓堂としての法華堂が建てられました。これは数度の火災による焼失と再建を繰り返した後、鎌倉時代末には廃絶したものとみられます。

 2005年の発掘調査により、義時の法華堂と推定される建物跡が確認されています。

鎌倉市西御門二丁目

JR鎌倉駅東口から徒歩約20分
JR鎌倉駅東口4番・5番バス乗り場から「大塔宮」「金沢八景駅」「鎌倉霊園正門前太刀洗」「ハイランド循環」で「岐れ道」下車徒歩約3分

東勝寺跡

東勝寺跡

発掘調査時(1997年)

概 要

 鶴岡八幡宮から南東約0.6㎞に位置する東勝寺跡は、狭隘な谷を造成して境内地を確保する、鎌倉の寺院造成の特徴を示す寺院跡の考古学的遺跡です。1333年の鎌倉幕府滅亡の際に、北条一族自刃の舞台となった地であり、北条一族が自刃した場との伝承があるやぐら(腹切やぐら)も存在します。

 遺跡は、南東方向に入り込む谷の北東及び中央の支谷に立地します。背後には標高約50~70mの山稜部が迫り、それらによって周囲を囲まれた範囲に、境内であった平場とそれを確保するために山稜部の裾を切り落とした切岸が、いたる箇所に残されています。

歴 史

 東勝寺は第3代執権北条泰時(1183~1242年)によって建立された北条氏の氏寺で、覚園寺や浄光明寺と同様、諸宗兼学の寺院でしたが、1333年の鎌倉幕府滅亡時の兵火によって焼失しました。

 焼失後、間をおかず復興されて純粋な禅宗寺院となり、14世紀後半までは寺勢を保ちましたが、15世紀後半から16世紀の時期に廃絶され、その後は再興されることはありませんでした。

鎌倉市小町三丁目

JR鎌倉駅東口から徒歩約20分

武家館跡

北条氏常盤亭跡

北条氏常盤亭跡 出土した金銅製水滴

出土した金銅製水滴

概 要

 鶴岡八幡宮の南西約2㎞、大仏切通の北約0.4㎞に位置する北条氏常盤亭跡は、武家館が谷を造成して敷地を確保した特長を端的かつ良好に留めているとともに、大仏切通に近接して武家館を配置し防御機能を高めたことをも示す考古学的遺跡です。

 また、豊富な出土遺物は、「常盤亭」において「和歌会」が盛んに行われたとする『吾妻鏡』の記述を裏付けるものであり、武家文化の一端を示すものです。

歴 史

 北条氏常盤亭跡は、地名及び『吾妻鏡』や江戸時代の地誌の記述等により、古くから第7代執権北条政村(1205~1273年)の「常盤亭」跡と推定されていました。近年の発掘調査の結果でも、礎石建物跡ともに文具や遊具を含む大量の遺物が検出され、歌会が盛んに催されたという記録とも符合するため、本遺跡が「常盤亭」であることが確認されました。

鎌倉市常盤

JR鎌倉駅西口から徒歩約25分
JR鎌倉駅西口1番バス乗り場から「山の上ロータリー」「鎌倉中央公園」行き「一向堂」下車徒歩約1分

港跡

和賀江嶋

和賀江嶋
概 要

 和賀江嶋は、南側が海に開く鎌倉の南東端、鎌倉市街地の前面約2㎞にわたって続く海岸線の東端に位置します。日本に現存する最古の築港遺跡で、中国や国内各地との文物や人の交流の拠点となった重要な施設でした。

 遺跡の現状は、直径40~50㎝の玉石が陸部から東西方向に積み上げられた築堤状を呈し、陸部から約250mの先端付近には八角形を呈した低い高まりと石柱が認められます。

 幅は約100mで、南辺はほぼ一直線ですが、北辺の陸寄りには規模は不明なものの、小さな入り江が存在します。現在の和賀江嶋は、満潮時には水没するものの、大潮の干潮時にはその全容を現します。

歴 史

 和賀江嶋は、1232年に第3代執権北条泰時の助力によって建設されました。17世紀末から18世紀初頭にかけて、江戸幕府による鶴岡八幡宮修理に際して和賀江嶋の修復も行われましたが、その後は高波等によって破損が続き、19世紀後半にはほとんどが水面下に没する状況となっていました。

 1923年の関東大震災時の地盤隆起により島全体が水上に現れ石積みが崩落し、1945年には日本海軍によって陸に接した部分の石が運び出され現在にいたっています。

鎌倉市材木座六丁目
逗子市小坪五丁目地先

JR鎌倉駅東口7番バス乗り場から「新逗子駅」行きで「飯島」下車徒歩約3分
JR逗子駅7番バス乗り場・京浜急行新逗子駅4番バス乗り場から「鎌倉駅」行きで「飯島」下車徒歩約3分